有智山城 所在地 福岡県太宰府市
西鉄太宰府駅北東3km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/30
僅かに残っている石垣 鎌倉時代、鎮西奉行として九州に下った下り衆のひとつで、九州北部の守護と太宰府の太宰少弐を兼ねた武藤少弐氏の居城。
 武藤氏は一般に藤原秀郷流とされるが、一説には藤原道長の裔ともいい、景頼、もしくはその子頼平の時に武藤と称した。頼平の子資頼が頼朝に従って功を挙げ、鎮西奉行として九州に下り、大宰少弐の官職と筑前、肥前、豊前、対馬、壱岐の守護を兼任し、北九州に一大勢力を築くとともに、後に官名から少弐氏と名乗った。
 建武期の当主貞経は、鎮西探題の北条英時を襲った菊池武時を撃退して敗死させたが、中央で後醍醐天皇が優勢であることを知ると一転して鎮西探題を滅ぼした。後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると、今度は尊氏方について九州に迎える準備をするが、建武3年(1336)貞経が守る城を後醍醐天皇方の菊池武敏・阿蘇惟真連合軍が攻撃し、貞経自刃とともに城は最初の落城をしている。足利尊氏が勢力を回復すると、貞経の子頼尚がそれに従って有力な北朝方武将として活躍したが、観応の擾乱などもあって情勢は流動的で、本拠太宰府を南朝方の菊池武光に奪われているほか、九州探題今川了俊と対立して一時勢力を衰えさせ、室町時代になると大内氏の勢力が北九州に及んだことによって幾度となく太宰府からの逃亡と奪回を繰り返した。この過程で有智山城も幾度か落城したと思われ、康安元年(1361)や永和2年(1376)を始めいくつかの記述が史料に見られるが、攻城戦があったのか、それとも単に城を捨てて逃亡しただけなのか、また、記述自体の信憑性などもあり、詳しいことは判らなかった。
 その後、応仁の乱を経て少弐氏を一時的に復活させた政資が、大内義興に敗れて肥前へと追われ自害して以降、少弐氏は没落して筑前に復帰することも無くなり、有智山城の詳細は判らなくなる。しかし、遺構には石垣が残るなど、戦国末期の特徴を留めていることから、支城のひとつとしてその頃までは存続していたと思われる。
 城は、少弐氏が居館を置いていた大宰府の後背にある宝満山の中腹にあり、詰の城としての機能と共に鬼門除けの意味があった可能性もある。もちろん築城は少弐氏の手によって行われ、築城時期は嘉禄年間(1225-27)ともいわれるが、はっきりしたことは判らない。城のあった付近は九重平と呼ばれる高原のような緩やかな勾配の平坦部で、城の入口にあったとされる有智山寺跡を含めると、標高の割に広大な土地が確保できたらしく、中世の山岳信仰とともに栄えた寺の僧兵とも連携して活動したといわれている。有智山寺跡から城の中心に向かって、緩やかな勾配で整然と段が並び、最深部に一段高い段が存在するが、これが本丸であるか、搦手側の押さえであるかは分からなかった。九重平の地名の通り緩やかな勾配の平坦地が広い為、標高の高い場所にあるものの見方によっては平山城の形態とも考えられる城である。
 遺構は森に埋もれて判別しにくいが、空堀跡、石垣跡は辛うじて判別できる。城跡への登山道は複数あると思われるが、自分が通った道は草が繁り、木々の枝葉も覆い被さって入口で非常に難渋したが、入口部分を過ぎれば杉が多く、足元も安全で散策しやすかった。