鷹取城 所在地 福岡県久留米・八女市境
うきは市役所南西5.8km耳納スカイライン沿い
区分 山城
最終訪問日 2018/10/17
鷹取城本丸と城址碑 筑後十五城に数えられた国人星野氏の、戦国時代末期における拠点のひとつ。その基準は不明だが、全国で最も高い場所にある城との説明がある。比高が700m以上という意味だろうか。
 星野氏は、渡来人系で筑後に勢力を張った調一党の流れといい、本家筋は黒木氏という。鎌倉時代初期の黒木助能が京へ上り、得意の笛を披露したところ、その妙技に感心した後鳥羽上皇から調の姓を賜ったとされる。一方、源平の合戦に名の見える多田源氏の源行綱の流れという説もあり、この説では助能を行綱の子としているようだ。このほかにも、後鳥羽上皇の後胤であるとか、北九州の大族大蔵氏の一流であるとか、薩摩から入部した豪族などの説があり、実際のところはよく分からない。伝承として共通しているのは、黒木助能が黒木を治めた実質的な祖で、その次男胤実が星野一帯を領して地名を姓としたことである。
 その後、星野氏は生葉・竹野両郡を領し、南北朝時代には南朝方の重要な一角として活動しているが、その頃の本拠は、鷹取城からやや北東にある妙見城であった。南北朝時代には、主に北朝方であった大友氏と争い、北朝と南朝を行き来した少弐氏とは和戦があったようだが、それは戦国時代に入る頃も続き、大友氏の配下に入ったり大内氏に属したりしたようだ。
 その後、星野氏は親大友氏派と大内氏派で分かれてしまい、親大内氏派は豊前国田川に所領を得、筑後に残った星野氏は大友氏に属し、後には筑後十五城に数えられた。とは言え、天文元年(1532)頃に当主親忠が大友氏に対して謀反を起こし、生葉城に籠もったとの記述も見える。この時は、大友氏は連年に渡って敵対関係にあったはずの大内氏とも連合して城を攻囲したようで、その討伐命令は大名より立場が上のところから発せられた可能性があり、一国人の叛乱鎮圧にしては大袈裟なことから、かなり大きな影響を及ぼす謀反だったのではないだろうか。ちょうど享禄4年(1531)に中央で大物崩れという大きな政変が起きており、それと関連するのかもしれない。
鷹取城説明板 その後の星野氏は、系図等で諱が一定しないのだが、大友氏によって親忠の弟とも黒木氏からの養子ともされる重実が当主に据えられ、大友家臣として活動したものの、豊前星野氏の高実の攻撃によって討死してしまい、子のいなかった重実の後継として、大友氏は蒲池氏に嫁いでいた重実の娘の子に名跡を次がせ、鑑泰と名乗らせた。鑑泰は大友家臣として忠実に働いたが、永禄2年(1559)の侍島の合戦で討死したとも、肥後国勝山で討死したともいう。鑑泰の跡は鎮胤(吉実)が継いだが、天正6年(1578)の耳川の合戦で大友氏が大敗を喫すると、やがて大友氏から離れたようで、大友氏の下に在り続けた問注所氏と度々争っていることが見える。また、鷹取城が築かれたのもこの頃で、妙見城よりも更に奥の城に移ったことから、情勢の逼迫が窺えるだろうか。
 この後、島津氏の勢力が及んでくると鎮胤はこれに属し、その北伐に従って立花山城の前線基地に当たる高鳥居城を守備したが、秀吉による九州出兵の前に島津軍は立花山城を落とせず、後退した。この時、鎮胤とその弟鎮元(吉兼)は退却を良しとせず、潔く籠城玉砕し、星野氏は滅んだ。これにより、鷹取城も廃城になったと思われる。星野氏の血脈は、鎮胤の遺児長虎丸が落ち延びたことで続き、長虎丸は鎮之と名乗り、後に佐賀鍋島藩士となった。
 鷹取城は、星野氏の勢力範囲であった生葉郡と竹野郡のほぼ中央に位置する標高802mの鷹取山山頂に築かれているが、比高が700m以上あり、その大きさから見ても主に詰城として機能したようだ。城は、山頂に奥行き15mほどの銅鐸のような形の削平地を構え、そこから翼を構成する羽のように郭を南東方向に縦横に重ねた城で、北と西は断崖となっており、鷹取山の地形が防御力の源泉となっている。ただ、南から東に掛けてはやや緩やかな為、防御力を補うようにその方向に郭を重ねると共に、南側には幾筋もの竪堀が掘られていた。また、平坦な地形は本丸と次段程度で、その下の郭は傾斜を持っているが、縁辺はやや盛り上がっており、それは恐らく土塁の跡だろう。土塁が廻らされていたと考えるなら、小さいながらもよく手の入れられた城である。
南東側に掘られた畝状竪堀群を横から 城は、前述のように標高802m、比高700m以上という非常に高い場所に構えられているが、屏風のような耳納山地の峰筋を結ぶ耳納スカイラインという林道が整備されており、訪れるのが容易く非常にありがたい。城の見所は、なんと言っても無数の畝状竪堀で、木々も刈られて非常に整備された状態である為、様子がよく解る。このほか、直下と言えるほど真下に広がる筑後川流域の景色や、一転してなだらかな高地のような景色の奥に見える星野氏発祥の星野の集落が望め、非常に爽やかな気分で散策できる城だった。