高祖城 所在地 福岡県福岡市西区・前原市
JR周船寺駅南2.2km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/30
 高祖城の城地には、平安時代に北九州を防衛する為に造られた怡土城という古代の城柵があったが、この城柵が9世紀以降に廃された後、鎌倉時代の建長元年(1249)に北九州の豪族原田種継が遺構を利用して城を築城し、代々の居城としたという。
 原田氏は、藤原純友の乱鎮定の功で征西将軍として赴任した大蔵春実の嫡流で、秋月氏や高橋氏、江上氏と同族になる。その共通の祖である大蔵氏は、後漢霊帝の玄孫が日本に帰化したという伝承を持つ漢氏の流れで、その一流が朝廷の出納を司った大蔵に仕えたので大蔵を称したものといい、春実以降、北九州の大族となった。
 九州に入った春実は、朝廷の出先機関である大宰府に近く、かつては防衛拠点でもあった基山に住し、武官として守備の任にあたっていたが、やがて麓の原田という在所に居館を営み、原田を称するようになったという。時代が下って、源平の頃には種直が平重盛の女婿となり、平氏方について隆盛したが、平家の滅亡によって鎌倉に幽閉され、赦免後は怡土庄を領した。
 以降、原田氏は小豪族の地位に甘んじていたようだが、元寇での奮戦が評価されて恩賞を受け、建武政権期には足利尊氏に味方した。しかし、一貫してそれ以降も北朝方であったわけではなく、九州の南朝勢力が倭寇貿易の権益を握っていたこともあってか南朝にも接近しており、勢力拡大に腐心した様子が窺える。
 南北朝合一後は北九州に勢力を伸ばしてきた大内氏の配下となり、対立する大友氏や少弐氏と戦った。興種が当主であった明応5年(1496)には、高祖城が少弐政資の攻撃に晒されたが、大内義興の援軍を得て撃退している。また、興種は永正5年(1508)、大内義興に従って入京しており、将軍義稙擁立の戦いにも参加した。
 興種の跡を継いだ子の隆種は、引き続き大内氏に属して筑前西部に勢力を蓄え、少弐氏や大友氏の軍勢を相手にしばしば勝利を得たが、天文20年(1551)に義興の子義隆が重臣陶隆房(晴賢)による謀叛で没すると、陶氏と大友氏の軍勢に攻撃されて高祖城は落城した。城を失った隆種は、その後は毛利元就に通じ、元就が天文24年(1555)に厳島の合戦で陶氏を滅ぼすと高祖城に復活、毛利氏と協力して再び大友氏に対抗したが、共闘していた秋月氏の没落などでやがて抗しきれなくなり、結局隆種は大友氏に降伏している。この時、嫡子の種門と三男の種繁は大友氏に徹底抗戦して討死したのだが、隆種の隠居によって家督を継いでいた四男の親種が天正2年(1574)に立花道雪に詰め腹を切らされると後嗣がいなくなり、最終的には隆種の次男で草野氏に入嗣していた鎮永の子が信種と名乗って家を継いだ。
 天正6年(1578)、大友氏が耳川の合戦で破れて斜陽となると、北九州では大友氏からの国人の離反が相次ぎ、秋月氏などと共に原田氏も龍造寺隆信に誼を通じて三たび大友氏に対抗し、大友家重臣立花道雪などど干戈を交えた。その後、隆信が天正12年(1584)に沖田畷で島津軍に敗れて討死すると島津氏の影響下に入り、島津氏の圧迫に耐えかねた大友宗麟の依頼によって秀吉による九州征伐が天正15年(1587)に開始されると、島津氏の援軍が来ないことを知った信種は九州征伐軍に降伏し、城は廃城になったという。
 標高416mの高祖山の頂上に築かれた高祖城は、上の城と下の城という大きくふたつに分かれており、部分的に古代城柵の怡土城の遺構を利用しつつ発展させたものだろう。郭には高さ2mほどの織豊系とは異なる石垣が組まれ、瓦葺の建物があったことが発掘調査から分かったが、これは九州征伐以前の山城には瓦葺の建物はないとされてきた従来の説を覆すもので、貴重な発見だったらしい。
 訪れた時は時間の関係もあって、中腹の古代怡土城の部分を回るのが精一杯で、頂上までは散策できなかった。福岡県はフェリーもあって訪れるいつか機会がありそうなので、またじっくりと散策したい。