高橋紹運墓
所在地  福岡県太宰府市
西鉄太宰府駅北西1.2km
最終訪問日  2001/10/30
玉砕した岩屋城二ノ丸にある墓石 秀吉の九州征伐直前、北上する島津軍5万を迎え、岩屋城で763名の城兵と共に玉砕した高橋紹運を弔う墓で、大城山を縦断する道路のすぐ脇にある。
 紹運は初名を吉弘鎮理といい、吉弘鑑理の次男として天文17年(1548)に生まれた。紹運が生まれた頃は大友家と大内家が婚姻しており、3年後に陶隆房による叛乱で大内義隆が討たれた後も、隆房が大友家から晴英を迎えて同盟を維持するなど、比較的平穏であった。ちなみに、隆房は晴英の偏諱を受けて晴賢と名乗り、晴英は義長と名乗りを変えたが、こちらの方の名で知られている。しかし、天文24年(1555)に毛利元就が厳島の合戦で晴賢を敗死させると、求心力を失った大内家は急速に瓦解し、代わって元就が台頭、この元就も大内家と同様に北九州への野心を持った為、大友家と毛利家は熾烈な争いを演じることとなった。
 紹運の初陣も対毛利での戦いで、門司城の攻防戦であった。その後の毛利との戦いにも活躍し、多々良浜の合戦などで軍功を顕している。この毛利家との戦いで大友軍が苦戦した原因は、立花鑑載や高橋鑑種といった有力庶族の寝返りであった為、義鎮は筑前に信頼の置ける武将を配置することに決め、岩屋城と宝満城の城督として紹運を置き、高橋家の名跡を相続させた。紹運は高橋家の通字「種」を用いて高橋鎮種と改名し、北九州の軍権を任されて立花城に入った老臣立花道雪の副将格として、共に傾いていく大友家を支えることとなる。
 天正6年(1578)の耳川の合戦で敗れて以降、大友家は急速に力を失っていった為、筑前にほぼ援護がないまま、道雪と紹運は龍造寺氏や筑紫氏、秋月氏などと戦っていたが、両将の踏ん張りでなんとか筑前は安定していた。しかし、天正13年(1585)に道雪が病没すると周囲からの攻勢が強まり、筑紫広門に宝満城を奪取されるなど、苦しい戦いが続いた。
 天正14年(1586)に入ると、島津軍は秀吉の九州征伐開始を前に九州を平定して海際で征伐軍を叩くという作戦を立て、猛烈な勢いで北伐を開始した。この島津の大軍を前に大友氏配下の諸将は降伏していったが、その前に立ちはだかったのが紹運だった。紹運は、立花道雪の養子となった実子立花宗茂の、より防御の堅い宝満城か立花山城に引いてくれという願いを聞かず、僅か763名の城兵と共に岩尾城に籠った。一方の島津軍は寡兵の岩屋城を侮り、大軍に兵法無しといわれるように兵力を恃んで力攻めしたが、死兵となった城兵の士気は高く、いたずらに兵力を消耗するだけであった。時間が切迫している島津軍は、一転して城に対し開城するように呼びかけたが、紹運の意思は固く、結局玉砕する7月27日まで城は落ちなかった。紹運は最後の最後まで味方を指揮し、最期は敵味方の将兵が見守る中、櫓に入って自刃したという。享年39。戦国時代でも全員玉砕という籠城戦はほとんど例がなく、それによって島津軍は貴重な時間と数千ともいわれる兵力を失い、海際で叩くという当初の作戦を転換するよりほかなくなったのである。
 紹運の墓がある場所は、岩尾城と道路を挟んで反対側にあるので、当時は城の一角を占めた場所だろうと考えられる。城の本丸跡にも、「嗚呼壮烈岩尾城址」という石碑が建っていて、紹運と配下の兵の事績を讃えており、秋晴れのすっきりとした清々しい城跡からの眺めと、当時の凄絶な様子があまりにも対照的で、まさに「兵どもが夢の跡」といったなんとも言い表せない儚さがあった。