長岩城 所在地 福岡県うきは市
合所ダム南東1.7km
区分 山城
最終訪問日 2018/10/17
長岩城址碑 筑後十五城に数えられた問注所氏の居城。
 問注所氏は、漢族系三善氏と推測される平安時代の公家三善清行の末裔とされ、平安時代末期の三善康信が頼朝の乳母の妹の子であったことから、流人時代の頼朝に対して京都の情勢を定期的に報せており、鎌倉幕府でも重用された。康信は、元暦元年(1184)に鎌倉で頼朝と対面し、政務を依頼され、政所別当大江広元と共に問注所執事として鎌倉幕府の実務を切り盛りするのだが、現在で言えば最高裁判所にあたるこの役所名がそのまま子孫の姓となるのである。
 問注所氏と筑後との繋がりは、康信が建久7年(1196)に生葉郡を与えられたことに始まり、康信の4代の孫康行が正和2年(1313)に下向し、問注所を姓として名乗った。長岩城もこの時に築かれたという。この康行は、元弘元年(1331)の元弘の乱では幕府側に与し、尊氏が後醍醐天皇に敗れて九州に下った際には尊氏に与したことが、史料から確認できる。
 以後の問注所氏は、南北朝時代は南朝方の強かった九州において北朝方として活動し、歴代の当主は足利将軍から一字を貰うなど、国人領主ながら将軍家との繋がりを重視していたようだ。一方、筑後国全体で見ると、九州の南朝方を実質的に滅ぼした今川了俊の失脚後は、大友氏が筑後守護職を務める事が多くなり、次第に筑後の領国化を進めていく。こうした背景の中、将軍義政から偏諱を受けていた康政の次は、大友親綱の偏諱を受けた綱康が継いでおり、中央の威勢が及ばなくなった応仁元年(1467)の応仁の乱の頃を境に、大友家臣化したようだ。
居館があった付近の石垣 以後、問注所氏は、大友氏や少弐氏、これと対立する大内氏や毛利氏の間で行き来する筑後の豪族の中において、忠実な大友家臣として行動し、大友軍の一角として多くの戦に参陣した。この為、歴代当主に討死が多い。ただ、戦国時代後期に差し掛かる頃には、後に筑前支配の要として立花氏の名跡と立花山城を継ぐ、大友家の一門かつ宿老であった戸次鑑連の継室として問注所鑑豊の娘仁志が迎えられており、家中で厚遇はされていたようだ。ちなみに、道雪の相続者となる娘のァ千代は、仁志との間の子である。
 この後、天正6年(1578)に大友軍が耳川の合戦で大敗を喫すると、その影響で筑後は勢力を拡大する龍造寺隆信の攻勢に晒され、天正9年(1581)には星野・秋月連合軍によって長岩城が攻撃されたものの、当主統景はこれを退け、その後も天正11年(1583)まで断続的な攻撃を撃退し続けた。この事もあり、統景は大友義統から家紋の杏葉紋の使用を許されるなど、一門に次ぐ扱いを受けている。
 翌天正12年(1584)になると、隆信が沖田畷の合戦で島津軍に敗れて討死し、九州の情勢は新たな局面を迎えるのだが、筑後ではこれに乗じて大友家が親龍造寺勢力を一掃して勢力を盛り返すものの、その逆襲として、同年末に問注所氏は、同じ筑後国人の星野氏や秋月氏、大叔父の問注所鑑景の連合軍から攻撃を受けてしまう。統景はこの時、長岩城に籠城してこれを撃退し、鑑景を討つことにも成功した。しかし、天正14年(1586)に入ると、今度は島津軍が九州統一の北伐を始め、岩屋城や宝満城、立花山城と同様に長岩城も島津軍に攻囲されることとなる。だが、統景はこの時も降伏せず、秀吉の上方軍到着まで城を守り切り、上方軍と共に島津軍を攻撃して大友家臣として本領を安堵された。
長岩城縄張図 このように、大友氏の斜陽と共に幾度も攻撃されつつ、領地を保ち得た問注所氏と長岩城ではあったが、慶長3年(1598)に朝鮮の役における主君義統の不手際によって、あっさり領地を失ってしまう。統景は文禄2年(1593)の文禄の役で討死していた為、子の政連が家を継いでいたが、城を明け渡して母の血縁である柳川の立花宗茂に客分として仕官し、この時に城は廃城になったようだ。
 城は、筑後川の支流である新川の上流の谷筋にあり、非常に中世的な山城である。縄張としては、後に説教場の敷地となった中腹に居館があったとされ、その背後の険しい斜面を幾段か削平して郭を設けているが、その郭も小さく、切り立った岩が並ぶ谷筋の地形を防御力の源泉としているようだ。周囲にはいくつかの支城があり、谷筋全体を城郭として、複数の小規模な城で連携して守ったのだろう。
 城へは、合所ダムという大きな目印があり、その脇を抜ける県道をひたすら遡っていけばいくつも案内が出ている為、非常に分かり易い。県道から、案内に従って右手のヘアピンカーブの道へ入り、しばらく上れば城のすぐ下に出る。城には遊歩道が整備されており、案内もしっかりしているので、散策はしやすいが、何しろ急峻の為、靴はしっかりしたものがいいだろう。