水城跡
所在地  福岡県大野城市
JR水城駅東すぐ
最終訪問日  2001/10/30
草木が繁茂して一見すると史跡とは思えない水城跡 国指定の特別史跡。
 天智天皇2年(663)、百済と共に唐・新羅連合軍と戦った日本軍は白村江で敗れ、その結果百済は滅亡し、日本は朝鮮半島の友好国を失った。
 大陸からの侵攻が現実味を帯びてきた翌天智天皇3年(664)、唐・新羅連合軍に備え、中央の出先機関である大宰府を防衛するために、大宰府盆地の入口1.2kmに渡って築いた土塁が水城である。基底部の幅37m、高さ14mで2ヵ所に城門があり、博多側には幅60mという大きな水堀を設け、大宰府側にも幅10mの水堀があった。文書や伝承によれば、侵攻軍に対して水攻めを行う為の構造物といわれているが、水を湛える方法等は諸説あり、詳しいことは判っていない。
 水城は、山と山の間の谷筋に1.2kmもの長さに渡って構築されたものである為、遺構は開発によって鉄道や道路に貫かれ、部分的に消滅している。訪れたのはJRの水城駅からすぐ近くのところだったが、元が石塁などではなく土塁なだけに、残っている部分は史料に残る数字よりも風化でかなり小さくなっている上、長年に渡って木々や草が生い茂っている為、一目見ただけでは当時の国家規模の防衛施設とは分からず、開発の造成などで小山を削ったような地形と見分けがつかなくなってしまっている。だが、造成から1300年以上経っているということを考えると、現在でもよく残ったと言えるほど形を留めており、ひとりの人間の生きる時間などを遥かに超越した、悠久の時の流れを感じる遺跡である。