久留米城 所在地 福岡県久留米市
久留米市役所北1.2km
区分 平山城
最終訪問日 2001/11/2
大手門付近にある案内板 筑後川と宝満川の合流点にある丘陵に築かれた城で、笹原城とも篠山城とも呼ばれた。
 最初の築城は永正年間(1504-21)で、当地の豪族が居館に近い城を築いたとされるが、具体的にどの豪族かというのは判っていない。久留米からやや東の草野付近に勢力を持っていた草野氏か、久留米付近まで勢力を伸ばしていた柳川の蒲池氏か、はたまたどちらかの配下にあった小豪族か、というところだろうか。
 築城当初は筑後川の泥湿地を主な防御力とする小規模な城であったと思われるが、かつて数多くの有名武将が陣を敷いたという要衝高良山から近く、筑後川と宝満川の両方の水運を押さえることもできる場所である為、戦国時代中期頃から大友氏や龍造寺氏による争奪の的となって城主は頻繁に交代した。しかし、城はあくまで前線基地的な規模に留まり、軍事拠点というほどの大規模な城に修築されることはなかったらしい。
 天正年間(1573-93.1)中頃には、高良山の高良大社の勢力下にあったらしく、高良山座主良寛の弟麟圭が居城したとされ、兄弟合わせて周辺の草野氏や黒木氏に匹敵する領地を持っていたというから、その勢力の大きさが知れる。しかし、その勢力の大きさが過信となったのか、麟圭は九州征伐後の天正15年(1587)に久留米城へ入部した毛利秀包と対立して矛を交え、後に和睦と称しておびき出された上、謀殺されている。
 城は、この秀包によって初めて石垣を備えた近世城郭の形にようやく整えられたが、秀包は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となり、その後は筑後を与えられた田中吉政の領地の一部となった。吉政は本拠を柳川に置き、この城には次男の吉信を入れたが、吉信は慶長11年(1606)に小姓を手討ちにしようとして逆に斬られ、その後は坂本和泉らが城代を務めた。
 その後、吉政の子忠政に嗣子が無く、田中氏は元和6年(1620)に改易となった為、筑後は分割され、丹波国福知山から有馬豊氏が入部して久留米藩が成立した。豊氏は、入部早々に城を改修して城下町も整備し、以降は有馬氏が維新まで続いた。ちなみにこの有馬氏は摂津の有馬氏で、島原半島の有馬氏ではない。
 城の構造は、今は削平されてしまっている蜜柑丸がもともとの中心であったが、近世城郭として改修された際に丘全体を本丸として石垣で造り、続く平地に二ノ丸、三ノ丸を備え、城下町の各要所に寺院を置いて防御機能を持たせた惣構えの造りにしていた。本丸には三層の隅櫓を多聞櫓で連結し、規模の大きかった東南の巽櫓が天守の代わりであった。その他にも二層の櫓があり、合わせて7つの櫓が城に建っていたという。
 維新後、明治6年の廃城令の対象となり、翌年から翌々年にかけて本丸の三層隅櫓と多聞櫓が取り壊された。また、外堀と中堀は埋め立てられて田圃や市街地となり、蜜柑丸を削平した土砂で東の内堀が埋め立てられたが、現在でも本丸石垣と内堀の一部は残っており、その高石垣からは市街地の中に居ながらも古城の趣を感じることができる。また、本丸跡には篠山神社と有馬記念館があり、僅かながら有馬氏時代の名残を留めていた。