岩屋城 所在地 福岡県太宰府市
西鉄太宰府駅北1.2km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/30
本丸跡に建つ石碑 秀吉の九州征伐直前、あの高橋紹運が島津軍5万を迎えて玉砕した事で有名な城。
 もともと高橋氏は、筑前の豪族原田氏や秋月氏と同じく征西将軍大蔵春実の流れで、その孫が筑後国高橋に住したことから高橋と名乗り、やがて大友氏に仕えた。そして、戦国時代の当主長種が没した時、子がいなかった為、大友一族の一万田親敦を養子に迎え、家督を継がせることとなる。これが岩屋城を築城した鑑種で、鑑種は永禄2年(1559)に家督を継いで城督として宝満城に入り、岩屋城はその支城として同年かしばらく後に築かれたという。ただ、鑑種入嗣は天文18年(1549)だったという説もあり、それに従えば天文年間末期の築城ということになる。
 鑑種は武勇にすぐれた武将で、大友家の主要な合戦で幾つも武功を挙げた。だが、兄を主君大友宗麟に殺された為か、やがて大友氏の一族衆でありながら毛利氏と連携して叛乱し、大友氏の筑前支配を動揺させる。宗麟は苦心の末、永禄12年(1569)に攻略して鑑種を追放し、吉弘鑑理の次男鎮理に高橋家を継がせ、筑前の押さえとして宝満岩屋両城の城督とした。この時、鎮理は鎮種と名乗り、出家後は有名な紹運と号している。
 太宰府を南に押さえ、商都博多から南東10kmに位置する宝満城は、同じく博多から北東10kmに位置する立花山城と共に、大友氏の筑前経営の重要な拠点であった。宗麟が天正6年(1578)の耳川の合戦で島津氏に大敗した後、国人の離反で本拠地豊後以外の支配力が衰えていく中、筑前だけが比較的安定していたのは両城がしっかりしていた為である。
 天正14年(1586)に北伐を開始した島津氏の軍勢が筑前に迫ると、紹運は、彼の子で立花道雪の養子となった立花宗茂の、本城宝満城か宗茂が守る立花山城に移ってくれという懇願を聞かずにこの城に籠り、島津軍の再三にわたる降伏勧告を突っぱね、763名の城兵と共に玉砕した。合戦は14日間に及び、島津軍の死傷者も4千5百名に上ったという。島津軍はこの戦いで兵力と時間を消耗し、岩屋城陥落後も北に位置する立花山城を攻めたが落とすことはできず、秀吉軍到着の前に九州を統一して水際で迎え撃つという基本戦略が根底から崩れ、疲労と秀吉軍の到着によって退却した。岩屋城で命を懸けた紹運には、この結果がありありと見えていたのだろう。また、息子宗茂は、立花山城から撤退する島津軍を追撃して大いに討ち破った上、この岩屋城と宝満城を奪回し、父の死に報いている。
 秀吉の九州平定後、筑前は小早川隆景に与えられ、宗茂は筑後国柳川に、高橋家を継いだ紹運の次男統増は筑後国三池に移された。瀬戸内の水軍兵力を擁する隆景は、玄界灘に面する名島城を本拠としたが、隆景入部後の宝満城と岩屋城の運用がどうなったかよく分からず、中世的な山城である両城は共に廃城になったのかもしれない。
 城は、大城山、四王寺という山塊の南の峰である岩屋山に築かれ、大宰府の谷筋を挟んで本城宝満城と向かい合う、向かい城的な位置にある。遺構は、すぐ近くを通る道路の建設等で破壊があったと思われ、はっきりと全体が残っているわけではないが、籠城の際の763人という人数で5万もの兵を相手にした効率の良さからして、規模はちょうど700人程度が過不足なく機能するような、それほど大きくはない城だったのだろう。
 現在は、太宰府から四王子山脈を越える道路が城を分断しており、城の全体像はやや不明瞭となっている。道路から少し山を登ると、本丸跡と一段高い狼煙台のような遺構が確認でき、「嗚呼壮烈岩屋城址」と刻まれた石碑が建っていた。ここからは太宰府の眺めが素晴らしく、麓で動く敵軍の様子が手に取るように分ったはずだ。また、この本丸の背後は堀切になっているようで、数少ない防御設備の遺構である。道路を挟んだ反対側に下りていくと、本丸よりやや広い二ノ丸があり、高橋紹運の墓がひっそりとあった。このほか、この二ノ丸の周辺には土塁などの遺構も残っているのだが、全体的に見れば、よくこの城であれだけの大軍に対抗したものだというのが率直な感想だろうか。