怡土城跡
所在地  福岡県前原市
JR周船寺駅南2.2km高祖山西側一帯
最終訪問日  2001/10/30
明確に残っている望楼跡の礎石 怡土という地名は、魏志倭人伝に出てくる伊都国にあたり、古代の有力地方であった。
 奈良時代、新羅遠征計画や唐の安史の乱による混乱という背景の中で、国外の災禍が日本に飛び火することを懸念した時の大宰大弐吉備真備が、城の構築を建議したという。ただし、築城理由には異説もあり、はっきりとしたことは判っていない。
 築城は天平勝宝8年(756)6月に開始され、佐伯今毛人に担当が受け継がれながら神護景雲2年(768)2月まで約12年をかけて完成した。しかし、城は幸か不幸か実戦に使用されることなく廃され、その後、鎌倉時代に入って豪族原田氏が遺構を利用して城を築城し、戦国末期までは高祖城と呼ばれて維持された。
 城は、急斜面から平地にかけてたすき状に郭を形成し、水門や城門を設け、望楼跡が北側に5ヶ所、南側に3ヶ所、麓に南北約2kmに渡る土塁が残っている。怡土城築城の約1世紀前に築かれた古代山城の多くは、百済滅亡と白村江での敗戦に伴う百済からの亡命貴族の協力によって築かれたといわれ、一般に朝鮮式山城と呼ばれているが、この怡土城は中国式の山城に似た構造で、そのまま中国式山城と呼ばれることもある。これは吉備真備が遣唐使として2度も中国に渡っていることと無関係ではないようで、それぞれの時代背景を考えてみるとなかなか面白い。
 古代城柵は廃止時期が資料に残っていないものが多いが、この怡土城も廃された年代ははっきりしておらず、9世紀初め頃までは機能していたと見られている。また、望楼や土塁は史跡としてきちんと残っているが、城内にはその他にどのような施設があったかなどという点も不明で、今後の研究や新たな史料発掘が待たれる。
 訪れた時は、時間の都合で全山を回れなかったが、土塁や望楼跡には、古代の国家的事業の威容が感じられる。今では周囲は全くの田園風景だが、往時はこの城を中心として、軍事の最前線らしく整然としていたのだろう。