福岡城 所在地 福岡県福岡市中央区
福岡市役所西1.8km
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/30
福岡城本丸縄張図 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、筑前の領主となった黒田長政は、当初は小早川氏の居城であった名島城に入城したが、名島城は水軍を持っていた小早川氏らしく海に面した城で、黒田家の本拠としては向いておらず、城下となる後背地も狭かった。そこで長政は、商都博多と那珂川を挟んで向かい合うこの地を城地と定め、入部翌年には築城工事を開始し、領内6つの支城を束ねる城として7年の歳月をかけて完成させたのが福岡城である。当時、この地は福崎という名だったが、先祖が一時住んでいた備前福岡にちなんで福岡と名付けたという。
 城は安土桃山期の野面積みと、江戸初期の打込ハギ、切込ハギが混在する壮大な石垣を持ち、その優美さには圧倒されるが、どのような理由で混在した構成になっているかは分からないらしい。個人的には、資材を立花山城などに求めているので、それらの資材を重点的に利用した部分が野面積みになり、築城当時の標準技術だった打込ハギも使われたが、切込ハギの箇所は後世の補修ではないかと思う。
 九州随一の規模を持つ城地はかなり広く、47万m2もあり、往時には47棟もの櫓を擁し、主郭部を内堀で囲って東に中堀を穿ち、西は今の大濠公園である大堀、東は那珂川で防御を固めていた。主各部は、本丸を中心に西から北にかけて二ノ丸と東二ノ丸を配し、更にその外側に続くように三ノ丸があり、三ノ丸の北端は北丸、東端は東丸と呼ばれ、本丸の南側にも南丸や水ノ手といった小さな郭が内堀に沿って設けられている。
 これらの壮大な石垣や広大な縄張からは国持大名の威厳が感じられるが、立地場所の標高の低さや、ほぼ方形の本丸などを見ると、どちらかといえば戦時の防御力よりも平時の政庁としての機能が重視されたようだ。とは言え、防御力を疎かにした訳ではなく、重厚な石垣からは近世城郭としてその二兎を追ったことが窺える。また、方形の本丸を中心として二ノ丸を囲むように配置し、その北に三ノ丸を構えた構成は、朝鮮出兵時に戦った晋州城を参考にしたという説もあるという。
 幕府への遠慮からか平和の時代に不要と判断したのか、天守閣は築かれなかったとされているが、初期の一時期、つまり元和元年(1615)の一国一城令の頃までは存在したという説もある。その真偽は置いておくとしても、城跡には大中小の3つの天守閣を連結させる天守台の石垣が残っており、この広大な城地と堅固な石垣や櫓を持つ城に壮大な天守が築かれていれば、国宝級の名城と呼ばれたに違いない。だが、熊本城を築いた加藤家のように、幕府に警戒されて黒田家は維新まで保ち得なかったかもしれず、黒田騒動の時の温情的な幕府の処置を見れば、あながち天守が無かったことが無駄ではなかったかとも思われる。
 城は明治4年の廃藩置県で廃城となった後、取り壊しや民間への払い下げがあり、城地自体は舞鶴公園として市民に開放され、美術館などの公共施設の敷地としても活用されているが、残念ながら城の建造物はあまり残っていない。しかし、戦後になって払い下げられていた祈念櫓や黒田別邸に移築されていた潮見櫓は再び城に戻ってきており、その他にも大手門や南丸多聞櫓、名島城から移築された名島門なども現存する。また、厳密には城郭建築ではないが、黒田節に謡われた母里太兵衛邸の長屋門があり、北角櫓などの復元された櫓や、部材が保存されて復元を待っている月見櫓や花見櫓などもあるので、徐々にではあるが城の威容を取り戻していくのではないだろうか。ちなみに、月見櫓とされた櫓から潮見櫓の棟札が発見されたとのことで、いずれは月見櫓が潮見櫓に、潮見櫓が太鼓櫓へ名称が変えられるかもしれない。