大宰府跡
所在地  福岡県太宰府市
太宰府市役所北西1km
最終訪問日  2001/10/30
政庁跡にある碑 古代から中世にかけて置かれた朝廷の出先機関があった場所で、国の特別史跡に指定されており、現地には都府楼跡という碑が建っている。
 古代、大宰とは数ヶ国程度を管轄する行政官のことで、九州以外にも大宰や類似する官職は存在しており、この大宰府も初期は筑紫大宰と呼ばれていた。しかし、8世紀以降は九州のみに設置された為、大宰や大宰府と言えば九州を指すようになった。ちなみに、漢字には大宰府と太宰府の2通りの字があるが、奈良時代の公印には大宰府、中世は太宰府の字をあてている。
 この場所への大宰府の設置は、天智天皇2年(663)の唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦いの後であるが、それ以前から筑紫に出先機関があったことは文献にあり、6世紀半ばにはすでに存在していたらしい。だが、白村江の敗北によって九州の統括と対外防衛の施設という、目的のはっきりした整備が行われたのである。
 大宰府の機能としては、行政府として九州の9ヶ国と壱岐、対馬を管轄し、更に国防上重視された防人も統括していた。その後、天平12年(740)の藤原広嗣の乱後の機能停止や天慶2年(939)末から同4年にかけての藤原純友の乱で焼失するなどしたが、対外機関及び九州総官府として再興され、元寇時にも重要な役割を担った。しかし、元寇後、鎌倉幕府が博多に鎮西探題を置いてからはその実質を失い、南北朝時代には南朝方の懐良親王が本拠としたり、先祖が大宰少弐であった少弐氏が本拠とするなどしたが、あくまで象徴的な存在に過ぎなくなっており、少弐氏が肥前に追われると完全に衰えた。
 史跡は、戦後は田野となっていたが、昭和43年から行われた発掘調査により、北辺の政庁を中心に南面して条坊制を敷き、東西に分かれて左右両殿があり、中門、南門を正面に置いた構造であることが判った。また、周辺には学校院や漏刻台等があり、設置された当時の対外情勢を反映するように、防衛施設として西北に水城、北に大野城、南に基肄城が設けられている。
 訪れた時は平日の通勤時間帯で、人影もほとんど無く、出張ついでに観光しているようなサラリーマン風の2人組がいるのみだった。古代政庁跡には共通しているが、この大宰府跡もかつての営みを想像しにくいほど茫漠とした平坦地で、それが後背の隆々とした山々との対比によって良い景観となっていた。