秋月城 所在地 福岡県甘木市
甘木市役所北東5.5km秋月中周辺
区分 平山城・陣屋
最終訪問日 2001/11/2
城の石段と城門 秋月は古く鎌倉時代から秋月荘の地頭であった秋月氏の本拠地であり、後背の古処山に詰城を築き、この地には里城や杉本城と呼ばれる秋月氏の居館城郭があった。秋月氏の時代はこのふたつで秋月城とも呼ばれていた。
 秋月氏の祖は、藤原純友の乱に功績のあった大蔵春実で、春実の子孫は大宰府の官人となって原田を称し、平家の興隆と共にその家人となって源平合戦では嫡流の種直が活躍したが、戦後は領地を没収されて鎌倉に幽閉されてしまい、数年の後にようやく赦免された。秋月氏の初代原田種雄はこの種直の一族であるが、その系図ははっきりせず、秋月を与えられたのも種直赦免の時期からずれている為、種雄自身が何らかの功を挙げたもの思われる。秋月入部は建仁3年(1203)とされ、入部と同時に本拠として詰城と里城を構築し、地名を名乗ったというが、この時に築かれた里城はここではなく、荒平城であった可能性もある。
 これ以降、秋月は鎌倉時代や室町時代を通して秋月氏が支配したのだが、建武3年(1336)に当主種道が菊池・阿蘇連合軍を中心とする宮方に投じ、九州に落ちる足利尊氏を迎え討った多々良浜の合戦に敗れて大宰府で自刃するなどの波乱もあり、南北朝時代には北朝と南朝を行き来しながら領地確保に腐心した様子が窺える。
 南北朝合一後、幕府の信頼が厚い大内氏が九州に進出するようになり、それに対抗する少弐氏や大友氏との間で武力衝突を含む激しい対立があったが、秋月氏は大内盛見が九州に進出するとこれに従い、盛見が永享3年(1431)に少弐・大友連合軍によって敗死した後は少弐氏に従ったようで、永享5年(1433)には少弐満貞が盛見の跡を継いだ持世によって攻められ、秋月城で討死している。これ以降、戦国時代まで大内氏が九州で強勢になるとこれに従い、影響力が薄れると少弐氏や大友氏に従うといった中小国人の典型的な動きをしたようである。
 その後、種朝や種時の代には大内氏の配下として大友氏と戦い、領国を守ったが、文種(種方)の時には一時大友宗麟に臣従していた。だが、やがて原田氏や筑紫氏といった筑前の豪族と共に大友氏から離反し、大内氏に代わって台頭した毛利元就と誼を通じた。しかし、時代は大友氏が全盛の頃で、文種は弘治3年(1557)古処山城で大友軍と戦って敗死し、その子種実は毛利家を頼って周防の山口に落ち延びた。この種実は1年半の間、山口に伏していたが、永禄2年(1559)に毛利氏や高橋氏の援助を受けて城を奪回し秋月に復帰、以降は毛利氏や高橋氏を中心とする反大友勢力と結び、永禄10年(1567)には秋月の休松で大友軍を大いに破るなど、大友氏に対抗した。その後は一時、大友氏の北九州への反攻が強まって屈したが、大友氏が大敗北した天正6年(1578)の耳川の合戦以降、子の元種が養子となっていた小倉城主高橋鑑種と結んで再び反旗を翻し、やがて大友氏の対抗軸である島津氏に属した。
 天正15年(1587)、大友宗麟の懇願によって九州征伐が開始されると、秋月城は筑前の国人を撃破した秀吉本隊約7万に包囲された。隠居していた種実と当主であった子種長は、降伏を決意して剃髪し、黄金100枚と米2000石、それに加え伝来の家宝で三大肩衝のひとつである楢柴肩衝を差し出して降伏した。この時、秋月城は破却されているが、戦後は、宝物献上によってか、名族秋月の名が絶える事を惜しんでか、日向国財部に減封されながらも領地を与えられ、秋月氏は維新まで生き延びている。一方、秋月氏の旧領は筑前を与えられた小早川隆景が支配し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、福岡城を首城とした黒田長政の領地となって、秋月には長政の叔父直之が城代として入り、陣屋を構えた。
 現在残っている城は、寛政元年(1624)長政の三男長興が5万石で秋月支藩を立藩し、古処山城の資材を活用して築城した時のもので、平時で且つ支藩だった秋月藩の立場を表すように、櫓台があるほかは防御の為の設備や機能は無いに等しい。後背の山々から延びた尾根の麓にある城には、緩やかな傾斜の中に区画された3段の郭や、明治9年の秋月の乱での破壊を免れた城門の長屋門である黒門が残っており、現在は秋月中学校や垂裕神社の敷地となっている。
 城下は秋月氏の頃から続く城下町で、秋月千軒と呼ばれたほど昔は賑わったそうだが、今は程よく寂れて、渋みのある城下町といった佇まいがある。町の武家屋敷や杉の馬場を散策して城の石垣を見ると、秋月の風景に溶け込んだような感じで、見ているだけで心地よい。