〜前編からの続き〜

9/19
 この日の朝食は旅館で出たので、たっぷりとおかわりして満腹気分で出発した。昨日の夜は結構雷がなっていて雨も降ったようだが、今朝は路面は濡れているもののなんとか雨は上がっている。朝飯を済ませているので、いつもよりは遅めだが、とりあえず鶴岡近くの藤島城に寄ってから最上川沿いに出て、ちょっと迷ったが、あまり来る機会もないので新庄にも足を延ばす事にした。
 最上川沿いの国道47号線を走っていると、途中で清川八郎記念館という案内板が目に入ってびっくりした。びっくりしてマジでと言っている間に過ぎ去ってしまったが、何の予備知識も無しに清川八郎に関する土地を通ったという事は、何か縁があるらしい。幸い新庄まで行けばタッチして帰ってくる予定なので、その時に寄ろうか。
 新庄までは約40kmの道のりだが、この辺りになると街と街の間がだいたい40kmぐらいの間隔になっているようだ。昨日の雨でちょっと増水した最上川を眺めつつ、1時間弱で新庄に着くはずだったが、ここでも新潟と同じように工事でよく止められたので、結局1時間以上かかってしまった。
 新庄に何の為に来たかといえば、言うまでもなく城があるから。そこに山があるから登ってしまう登山家のように、城があると寄らずにはいられない。江戸時代に築城され、高土塁が壮麗な新庄城跡には、幼稚園児がお散歩に来ていたが、イチビリ中学生の間ではイケてるであろうチャリンコのいじりかたをしている中学生も散歩に来ていた。学校の近くにこんな場所があるんなら、そらサボりに来るわなと思いながら見ていると、学校からこちらも自転車で出動してきた先生が学校行きや〜という感じで中学生を追っていた。ある意味追い込み漁やなと思いながら、中学時代はあんなんやったよなと懐かしかった。
 新庄にタッチして、再び国道47号線に戻り、今度は西走して清川八郎記念館を目指した。記念館で出迎えてくれたのは、管理しているおばちゃんと多分遊びに来ていたその娘さんと孫の3人だった。隣接して清川神社があるのでその境内で遊んでいたが、自分が訪ねていくとおばちゃんが記念館の中へ導き入れ、お茶と梨を出してくれた。またその梨が甘くて美味しかった。
 清川八郎といえば新撰組とは関わりの深い人物だが、道路の案内板を見て、そういえば東北出身だったような気がするなと思い出した程度の認識しかなかった。あの時代はたくさんの志士と呼ばれる憂国の士が出たが、西国が主で、東北からはあまり出なかった。明治維新前夜まで東北諸藩が時勢に疎く、眠ったように過していたのも、藩士にそういう人間が少なかったからだろう。清川八郎は数少ない東北出身の志士として活躍したが、長州や薩摩、土佐藩などと違って、といっても土佐は藩としては佐幕で脱藩の士が攘夷派だったが、出身地の閥がないことが行動の制限になったことは多かっただろう。それが余分な力みを生み、奇術的な手法や悲劇的な結末につながっていったような気がする。そう思うと、出生地の悲劇としか言いようがないかもしれない。
 清川の集落を出たところで1000mileを達成し、国道345号線に戻って北上すると、松山城という城がある。この城は国道からちょっと外れた県道沿いにあるので、フラっと寄って軽く散策したが、この辺りから交通量が目に見えて減ってきた。国道でも県道でも車の多いところはあまりなく、快調な流れが続く。
 松山町から北に10km程のところに八幡町があるが、地図上で舞鶴公園というのを発見した。身近なところでは京都の舞鶴がそうであるように、舞鶴は城の別名であることが多い。ちょっと期待しながら舞鶴公園に寄り道してみたが、これといった城の表示はなかった。立地的にも城があってもおかしくないところだが、勘が外れる事もある。いや、外れる事のほうが多いか。
 昼に近くなるにつれて天候が回復し、気持ちのよい気候になってきた。昼飯はコンビニで済ませたが、弁当を食べながら見た鳥海山はいい眺めだった。時々鳥海山をよそ見しながら走っていると、いつのまにやら国道345号線は国道7号線にぶつかり、その道は海岸沿いを北へ延びている。象潟の読み方に感心しつつ、1時間ほど北上を続けているとようやく本荘に着いた。この辺りは前述したように街と街の間が40kmぐらいあり、道路上の青看板を見ても、明らかに地元より表示される距離が長い。だいたい街と街が1時間単位で離れている計算になるか。時間的に考えれば意外と遠くはないな。市街地の場合は近くても時間がかかるしね。
 本荘で少し迷ったが、無事本荘城を散策し、今度は国道108号線で南東の方向へと進む。どこを目指しているかといえば、湯沢だ。そのまま横手に出ようかとも思ったが、せっかくだからちょっと遠回りになるが足を延ばそう。しかしこの辺りの国道は本当に混む事を知らない。快調の一言で、時間も計算しやすくてありがたい。途中、県道57号線に入って立石峠や真坂峠をワインディングを楽しみながら越え、国道398号線に合流して湯沢へと到着した。
 とりあえず、城の麓に湧出している有名な力水で顔を洗おうとバイクを置いて歩いていると、水を汲みに来ていたおじさんに声を掛けられてしばらく談笑した。おじさんは、湯沢には海がないからたまに海を見る為に本荘辺りまで出掛ける事があるらしく、神戸は海も山もあっていいと言っていた。地元にいると気付かないが、旅をしてると神戸は確かにいい街やなと思う。地理的にも恵まれてるし、どこに行ってもみんな知ってくれている。神戸ナンバーを背負ってるお陰で声を掛けられる事も多いしね。
 力水で喉を潤し、顔を洗って湯沢城へと入っていったのは午後4時を過ぎていて、城跡の麓のほうは高校生が出没していたが、山のほうは人気がない。夕方のオレンジっぽくなった街を見張台跡から眺め、そろそろ宿をと考えなが下山し、地図を見ると横手の駅前に健康ランドのような施設があり、宿泊もできるらしい。ええのがあるやんと思い、とりあえず横手まで行く事にした。
 時間的にラッシュの時間になってきているので、湯沢横手道路で国道をスルーし、I.C.を出たところにガストがあったので晩飯を食べる事にした。食事を終えると当然日は暮れていたが、健康ランドが駅前でわかりやすいということもあって、スモークの入ったバイザーに四苦八苦しながらも迷わずに駅前に着く事ができた。健康ランドは横手駅前温泉のゆうゆうプラザという名前で、まだ時間は浅いのに駐車場はなかなか多い。とりあえず宿泊できるか聞く事にして中に入ってみると、なかなか綺麗なつくりで、ちょっと高そうな嫌な予感がしたが、邪念を振り払いつつ店員に聞いてみると、素泊まりでもかなりの値段である事が判明した。もうこの時間では他に予約を取る事も無理なので、この瞬間に野宿が決定した。
 ゆうゆうプラザでゆっくりと湯につかり、午後8時ごろから野宿場探しにぶらぶらと出掛けた。最初駅前近くの公園で野宿しようと思ったが、繁華街が近くてちょっと明る過ぎるので断念し、旧市街っぽい所を走っていると、ちょっとした公園のようなところを発見したので、そこにテントを設営した。とりあえず風呂も入れて寝床も確保できたので、まあまあよしとするか。
走行距離 294.56km

9/20
 今回の野宿場は道路のすぐ近くだったので、しばらくの間は車の音が気になったが、深夜の12時を過ぎると車もほとんど通らなくなり、結構寝れた。起きて外に出てみると、テントには夜露がついていた。だいぶん北に来たので露も降りる気温になったらしい。
 朝の身支度をテントを乾かしながら済ませ、朝一で横手城へと向かった。現在の横手市街からちょっと離れているせいもあって、城付近は非常に静かな雰囲気がある。さすがにまだ8時になっていないということで、観光客はおろか散歩の人もほとんど見かけないまま気楽に散策した。一応城には、何故か本丸ではなく二ノ丸に模擬天守が建ち、本丸には戊辰戦争の生々しい弾痕の跡が残る神社があるが、時間が時間なので天守のほうには入れなかった。この土地の歴史を知る為にも展示物をみたかったが、開館までは2時間ぐらいあるのでしょうがない。
 横手城を下り、朝飯を高校生や社会人で混み合うコンビニで買って、バイク横に座っておにぎりを食べていると、コンビニの中から店長らしき人が現れ、声を掛けてきた。「神戸からです。」みたいな受け答えをしていると、その店長の息子もバイクであちこち行ってるという話になり、ちょっと待ってといいながら店に入り、これあげるから気をつけて行きよとガムをくれた。こんな思ってもみなかったちょっとした厚意というのは、なんかほっとするし、今度は自分が誰かにしてあげたいと思うね。
 横手駅前を出発し、国道13号線で今度は北の金沢柵を目指す。金沢柵の手前にあった資料館はまだ開館してなかったので、寄りたかったがスルーし、八幡社の横を抜けて金沢柵へとたどり着いた。ぼちぼちバイクを置いて散策していると、横手城を下りようとした時に車で現れた観光客の人がなんとここにいた。横手城のときは、俺みたいに野宿ならわかるけどちょっと来るの早すぎるんちゃいまっかと思いながら見送ったが、まさか次に訪れた金沢柵で再び出会うとは思わなかった。そのおじさんの乗っている車は足立ナンバーだったので、遠いところから来てるなという感じで記憶に残っていたが、向こうもなんか気に掛かっていたらしく、横手城に来ていた人ですよねと声を掛けてきた。
 おじさんの話によると、おじさんはもともと幕末に興味があったらしいが、だんだんと歴史を遡り、今は源平の頃から平安末期あたりが旬になっているらしい。それで金沢柵かと合点がいったが、おじさんも同じような歴史フリークを発見して何か嬉しそうだ。自分もいずれあんな感じになるのだろうか。なったとしても鎌倉以前まで興味が遡りそうではないが。
 おじさんとお互いに気を付けてと別れ、本荘の大名だった六郷氏が出たところと思われる六郷町を城の案内がないか注意深く通過し、払田柵跡へと立ち寄って、角館へと向かった。角館にも角館城という城があるが、城は早くに廃城になったので、東北では珍しい武家屋敷が今は観光地となっている。武家屋敷はバイクでよそ見しながら軽く見て回り、ちょっと戻って城へと着いた。ここもなかなか峻険な地形の城で、山城らしい感じがしたが、予想通り遺構は少なかった。
 角館からは、北上して日本で1番の深さを持つ田沢湖に向かう。田沢湖や十和田湖などの東北山脈の湖も、今回の重要な目標だ。国道105号線から県道60号線はすこぶる道が良く、そこそこカーブもあって非常に乗ってて楽しい区間だ。そうこうしているうちに、辰子像のところまであっという間に着いてしまった。ここはプリンスホテルもあって高級リゾートっぽい雰囲気が漂っているが、ちょっと外れると雄大な湖岸が続いている。辰子像の周りには蜻蛉が数多くいて、北のほうへ来たということと、秋が近いという事を実感させてくれる。
 田沢湖からは、一旦同じ道で角館まで戻り、国道46号線から国道13号線に入って秋田へと向かう。秋田市に入ったところで昼食を済ませ、ルート確認の為に地図を見ていると、比較的近いところにぽっこりと盛り上がった金照寺山というのがあった。城があってもおかしくない地形だし、城跡に寺が移ってくるのはよくある話なので、今日は順調に来ていることもあってちょっと寄り道する事にした。だが10分ばかしブラブラしてみたが、残念ながらそれらしいものは発見できなかった。
 金照寺山から市道を駆使して久保田城に立ち寄り、復元された櫓や、佐竹史料館によってゆっくりと見学し、湊城があったはずの土崎方面へとバイクを走らせてみる。湊城は土崎湊という東北屈指の港湾を支配下に置く城なので、あるとしたらこの辺にあると思うのだが、途中に秋田城跡に寄ったりしながらブラブラとしてみても、見つけることはできなかった。なかなか予備知識無しで探し当てるのは難しい。
 海沿いに出たので、抜け道っぽい海沿いの県道を北上し、国道101号線に合流した後、県道42号線で大潟村へと向かう。八郎潟の干拓地も今回の目標の一つで、小学校の時から行きたかった場所だ。だが現地に着いてみると、思ったほど爽快な道路ではない事が判明した。国道101号線のバイパスとして使われているようで、結構大型トラックなどの交通量が多く、流れはゆっくり目だからだ。ずっとトラックの後を走っていても面白味がないので、ちょっと道を外れてみると、広大な農地と直線的な道路が現れた。やはりこうでなくちゃいけない。この景色だけでも来た甲斐があったというものだ。
 大潟村から国道101号線に戻ってすぐに国道7号線と合流し、しばらく行くと能代に入る。そういえばバスケでめっちゃうまい奴が能代工業やったよなと思いながら、市街の外れを海沿いに進むと、俗に風の松原と呼ばれる防風林が左手に広がってきた。その数700万本らしい。まさに松だらけで、松ぼっくりは拾い放題だ。
 これまで宿泊するところは1県に1泊ずつで来ているので、今日は青森県まで進みたかったが、能代でもうすでに午後4時前ということは、ほぼ青森入りは不可能だと思われる。が、行ける所までは当然行ったほうが良いので、能代から国道7号線で大館へと向かった。特に国道沿いに檜山城などの檜山安東氏関連の案内が無かったので、そのままあっさりと東進することになったが、大館を出た後は次の目標である十和田湖へと道が続いているので、たぶん大館で泊まる事になるだろう。
 大館に着いたのは午後4時45分頃。いつもならもうちょっと進んどくかと思うところだが、次が十和田湖では進んでも泊まるところがない。こんなに早く泊まる場所に着く事は今までなかったが、今日は余裕を持って宿を探せるし、この時間なら観光協会もまだ開いているはずだ。とりあえず大館の駅まで行くと、やっぱり観光協会があった。そこで素泊まりでできるだけ安いところという条件で選んでもらい、山田旅館というところに決まった。駅からすぐということだったが、本気で近いところだったので思わず1度通り過ぎてしまい、一方通行などもあって着くまでにちょっと時間が掛かった。
 山田旅館の女将さんはバイクに乗ったこともあるらしく、とても気さくな感じの人でいろいろと話もできた。でも部屋に入って驚いたのが、テレビが100円で動くということだった。昔に家族連れで行った旅館はほぼ100%そうだったが、最近はもう絶滅したと思っていただけにびっくりした。田舎ではまだまだ健在ということだろうか。
 素泊まりだったので荷物だけを置いて、飯のついでに大館城に寄ったが、もうすでに日は暮れていて、薄暮の中の散策となった。城跡の公園には高校生のカップルや仕事帰りの人が結構いる。この時間の公園の風景はどこも変わらない。が、ふと気付くと、このあたりの公衆電話ボックスは平地から少しかさ上げして設置されている。これは多分雪が積もるからだろう。東北の国道には防風の為の折り畳み式の板があって、あれも冬の間は季節風が強いからだろう。人の営みは同じように見えても、気候は関西よりも格段に厳しいのが透けて見える。
走行距離 292.32km

9/21
 朝、天気予報のためだけに100円テレビをつけるのはもったいないので、携帯で確認してみると一時雨という予報。今日はひと波乱ありそうだ。
 とりあえず最初の目標である十和田湖へは、県道2号線という軽快なワインディングロードで30kmほどだろうか。木々の間を抜けていく道だが、湖が近付くにつれて樹林の様子が変化していく独特の道だ。十和田湖はカルデラ湖なので外輪山があるが、発荷峠付近は物凄いアップダウンになっている。このアップダウンによって、坂を登りきった後に急に視界が広がり、峠の展望台からは気持ちのよい眺めが得られたが、この辺りは標高が高くなってきてることもあって肌寒い。日が差したり隠れたりするような今日の天気では体が温まらない。
 発荷峠のオニのような下りを過ぎると十和田湖畔に入る。湖畔の道は広くはなく急なコーナーも多いが、樹林の間を抜けていく道には、あまり日本では見られないような風景が過ぎ去っていく。どちらかといえばスイスや北欧といった感じの風景で、真夏ならどんなに気持ち良いだろう。そんな風景に誘われてぶらっと1周しようかとも思ったが、天候が崩れる前に青森側に入っておきたいとの思惑から、国道102号線へと抜けた。
 十和田湖の外輪山を越える頃、あからさまに黒い雲が頭上を覆うように迫ってきており、ペースは自然と上がっていったが、いかんせんワインディングロードはコーナーが多く、直線的に進めないのが致命的だ。そろそろ浅瀬石川ダムが近付いて来た時、ついに雨が降り出した。急いで雨用の装備に替えるが、予報は一時雨だ。どこかでやり過ごせば天候は回復するはず。そう思って浅瀬石川ダムを越える頃、道路に落合温泉と板留温泉の文字が目に入った。ここは体も冷えているし、温泉でやり過ごそう。
 国道から浅瀬石川沿いに向かって右折し、板留温泉街っぽいところで道行くおばあちゃんに外湯ありませんかと聞いてみると、おばあちゃんは驚いたようにすぐ横を指した。だが横を見てもそれらしき建物がないので、もう一度ここですかと指を指してみると、そうですとの答え。?と思いながらも、とりあえずここは下り坂でバイクを止められない為、一旦川を渡ってUターンし、戻ってきてみると、どうやら下のほうに下りていけるようになっているらしい。バイクを止めて濡れないように素早くタオルをバッグから抜き出し、階段を下りていくとおじいちゃんが番台をしている小屋があった。値段は130円と激安で、その安さに感心しながら風呂のある建物に入ると、脱衣場が2畳ほどの広さで湯船は2m四方ぐらいのこじんまりとした温泉だった。まあ町の人たちが使う温泉はこんなもんやろし、逆にこっちのほうが鄙びてて良い。中にはおじいちゃんがひとり入っていたが、しばらく湯船に浸かっていると続々と3人ほどのおじいちゃんが入ってきた。その格好から、農作業中に雨に濡れたので暖を取りに来た感じだった。そのうちのひとりが体を洗っている時に水で湯をうめていたが、途中で手を入れて温くなっていることに気付き、たぶん「ちょっとぬるいなぁ。水止めてくれ。」という感じで話しかけられた。たぶんというのは、全く言葉が分からなかったからで、遠国のお年寄りの言葉はわからんというのを身をもって感じた。こういう時は日本人にしか通用しないが、有効な作戦がある。名付けてとりあえず笑っとけ大作戦。この難局も水の蛇口を閉めつつ、この作戦で乗り切った。
 板留温泉を出ると、予想通り天候は回復傾向になっている。念の為、カッパを着込んで出発したが、黒石市まで下りてくると路面も乾き始めているようで、なんとか天気はこのままもつようだ。黒石市から一旦北上して浪岡城に寄り、そこから国道7号線を南下して弘前へと向かった。
 弘前といえば弘前城。桜の季節じゃないのが惜しいが、昔の敷地をほとんどそのまま残している城は壮大で、三重の堀や東北に珍しい石垣もある。これほど完璧に残っている城は全国でも数少なく、城フリークとしては感動ものだ。
 弘前を出て、弘前城の津軽藩を創始した津軽為信所縁の大浦城を散策し、そこから県道と広域農道を駆使して、一路竜飛崎を目指す。どんどん北上して津軽半島に入ってくると、町が少なくなって湖沼や池が多くなってくる。それを縫うように農道は通っているが、近くの県道よりも遥かに直線的で、その為か大型車も多い。それに日本海側に近いせいか風が強くなってきている。大館の山田旅館の女将さんが、10月半ばぐらいの気温と言っていたので、季節風の影響もあるのだろうか。道の途中にある温度計は14℃を示し、夏用の指先が出たグローブが辛い。
 十三湖の周りには地図上に城が4つほどあったが、宿に泊まる為には竜飛崎に行くだけではなく帰ってこなければならないし、この冷え方で日暮れになるとどうにもならないので、残念ながら先を急ぐ事にした。
 十三湖を過ぎて龍泊ラインと呼ばれる国道339号線に入ったあたりから、あからさまに海岸沿いの道になった為か、更に風が強くなってきた。とてもじゃないがコーナーでは30km/h以下に落とさなければ、煽られてバランスを保てない。途中に眺瞰台という眺めの明らかに良さそうな展望台があったが、吹きっ晒しで風を防ぐ空間がなさそうだったので寄るのを断念し、冷えで体の硬直を感じながらそのまま竜飛崎まで頑張った。
 竜飛崎は1年中風の強いところとして知られており、その風を利用した風力発電の設備もある。展望台のある近くの駐車場にバイクを止めたが、風の方向を考えて倒れないように止めなければならないほど、ここも風が強い。バイクを止めた後も、風に晒されて寒くてしょうがないので、体を温めるために走りながら展望台や階段国道を見て回った。展望台の近くには旧海軍の監視所があったが、昔の人はここでこの強風と戦いながらの激務だったんだろう。
 ざっと見て回れるところを回ったので、ちょっと坂を上ったところにあった休憩室に、ホットの紅茶を買って行って暖を取らせてもらい、ようやく一息つけた。ここまでの20kmほどは寒さとの戦いで、まさかこの北の果てで寒波に襲われるとは思ってもみなかった。出発前の予想では、関西より1ヶ月ぐらい先の気候やから気持ちよく走れるわと思っていたが、その1ヶ月先の気候の更に1ヶ月先となると、さすがに気持ちよく走れるわという装備では貧弱だ。
 竜飛崎から今度は東南方向に戻ってくのだが、追い風でしかも山陰になることもあり、行きとは180°違う快適さで、さっきまで震えていたのがまるで嘘のようだ。そうなると細かいところに寄っていく余裕もでき、青函トンネルの入口を見つけたので、寄ってみたりもした。だがしばらく待ってみても電車は来そうになかったので、そこから津軽海峡線沿いに県道と国道を乗り継ぎ、青森市内に入った。市内でこのまま宿を探すのはちょっと早かったので、青森市街をスルーして三内丸山遺跡を訪ねてみたが、再び暗雲が垂れ込めて暗くなってしまった上に雨が降り出したので、またもダッシュで散策し、宿を取る為に再び青森市街にバイクを向けた。
 さすがにこう寒くては野宿する気にもならず、一旦青森駅まで行って宿の手配を済ませ、民宿にチェックインしたのは午後6時を過ぎたところだった。とりあえず冷えた体を風呂で温めてから、夕飯を食べにブラブラと出かけ、帰ってきて天気予報を見ると、なんと明日は最低気温6℃で低温注意報が発令されていた。寒さもここに極まったか。
 2度目の風呂に入って、布団に潜り込みながら明日のルートをチェックしていた時、どこからともなく焦げ臭いにおいが漂ってきた。気のせいかとおもったが、だんだんとにおいが強くなってくるので部屋の外へ出てみると、なんとろうかが煙っているではないか。こんな旅先の地で、生涯で1度あるかないかの大イベント発生だけはやめてくれよと思ったが、火事の煙の勢いではなさそうで、火事だとしてもまだ序盤の攻防だろう。そのせいか、1番奥の部屋の自分が気付いているのに、他の宿泊客は気付いているのかどうか知らないが、誰も廊下には出ていなかった。とりあえず急いで煙の方向を確かめ、1階から漂ってきているようだったので下りてみると、厨房から煙が大量発生していた。宿の人間はというと、厨房の奥の部屋でこたつに入っていびきをかいている。おいおい頼むでと独り言を言いながら、厨房のコンロにかけてあった鍋の海老が空焚きになって煙を吐いていたので、火を消した。これでもう大丈夫だろう。宿の人間を起こして何か言ってやろうかとも思ったが、今日は雨や寒さに晒されてもう疲れたし、一刻も早く眠りたい。そして明日は速攻でこの宿を出よう。そう固く誓って部屋へと戻った。
走行距離 321.28km

9/22
 昨日の誓い通り、早朝に青森を出立し、みちのく道路で一気に太平洋側へ。そこから一旦国道4号線を南下して七戸城に寄った後、引き返して野辺地で城の案内板がないか探したが無かったので、そのまま北上し、国道279号線のむつはまなすラインで大間崎まで突き進む。途中、ダンプ2台を追い抜こうとして、前の1台が右折してきて死にそうになったが、それ以外は順調に流れ、むつ市から進路を変えて恐山へと向かった。
 恐山というのは三大霊場のひとつに数えられ、イタコで有名でもあるが、結構観光客が多く、中には温泉もあって拝観料も必要なので、それほど霊場という感じはしない。だが、宇曽利山湖を中心とする一帯には、樹木が少なく荒涼とした白い大地が広がっており、専門家でないのでわからないが、硫黄成分が多いのか銅が混じっているのか、たぶんそのせいで木々はあまり育たず、湖は青白い色をしている。ここにただひとりでいれば、日本とは思えない風景に霊場を感じるだろう。
 恐山から山越えで北側に出る道を選択し、細いながら車があまりいない為、結構倒すのを楽しみながら国道279号線へ出て、ふたたびむつはまなすラインで大間崎へと向かう。
 大間崎は下北半島の先端で、本州最北端の地になる。知らなかったが、朝のNHKの連続ドラマ小説「私の太陽」のロケ地でもあったらしいが、それはともかく、最北端に相応しい立派な「ここ本州最北端の地」と記された石碑が建っており、天気が良かったので海を挟んで北海道がはっきりと見えた。この日の海は落ち着いていて、潮の加減だろうか、西から東へと川のような流れができており、打ち寄せる静かな波と、とても澄んだ綺麗な水が非常に印象的だ。こんな先っぽはライダーがよく来るポイントだが、この日も入れ替わり立ち代わりバイクが止まっていた。夏にはテントサイトがライダーで一杯になるらしいが、今日は土曜日で多い一般の観光客に比べればそんなに多くない。そんなバイク達を見ながら石碑の近くで休憩していると、BMWのバイクに乗った30代から40代のライダーが声を掛けてきた。その人の話によると、今日朝早くに出発し、石巻から高速を飛ばして来たそうで、ここまで500km以上の距離があるが、日帰りでこれからまた帰っていくらしい。かなりの強者や。1日で1000kmなんて自分には考えられない。なんといっても腰がもたない。
 昼時をもう過ぎていたので、ラーメンを軽く煽ってから来た道を戻る事にした。その道すがら、登坂車線のある木野部峠で白のセリカと勝手にバトって80km/hぐらいで倒して遊びつつ、むつ市で斗南藩史跡地の文字を発見して寄り道してみた。
 この斗南藩というのは、維新後に会津藩が再興されたものだが、この東北の僻地で気候も厳しく、入植した会津藩士も耐え切れず逃亡する人が絶えなかったようだ。しかもすぐに廃藩置県となり、結局入植は失敗したという。体制の変わり目の出来事とはいえ、新政府の仕打はあからさまでむごい。
 むつ市から当然南下していくしかないのだが、むつはまなすラインを南下して行っても同じ道なので面白味がない。そこで、県道7号線で冷水峠越えをして国道338号線に入り、太平洋側の道を南下していった。この道沿いには、原子力で有名な6つの村が合併してできたという六ヶ所村や、米軍基地で有名な三沢市があるが、この国道を淡々と、本当に淡々と走っている限りは、これらに関連のありそうな風景にはほとんど出会わないし、その他に何があるというわけでもない。こんなんやから、原子力の施設や米軍基地がいくらかお金を落とさないとやっていけないのかもしれない。
 三沢を過ぎると百石に道路は差し掛かっていくが、確か百石という武将が戦国時代にいたような気がする。ということは、この百石にもたぶん城があるんだろうが、国道沿いにそれらしい表示が無かったので、あえて探す事をせずに通過し、一気に八戸まで走り通した。
 八戸で宿の手配をしようと公衆電話で電話帳をめくってみると、八戸には新八温泉はちのへゆーゆらんどという健康ランドがあるらしい。電話して確認してみると、仮眠の部屋がちゃんとあるらしいので、今夜の宿はここでいいかと早々に決め、まだちょっと時間が早いので八戸城へと向かった。しかし、途中で渋滞に巻き込まれ、道にもちょっと迷い、結局着いた時には陽はどっぷりと暮れてしまっていた。仕方がないので明日また来るとしよう。
 晩飯は手早く済まそうと思い、道沿いにあった吉牛でちゃっちゃと牛丼を掻き込み、すぐに健康ランドへと向かった。さすがに土曜ということもあって健康ランドの駐車場は満杯で、端のほうにバイクを止めたのだが、ひとっ風呂浴びてから休憩室で地図を見ていると、警備員の人が神戸から来たのかと尋ねてきたのでそうですと答えると、この辺は酔っ払いもおるから単車を入口の近くの明るいところに移動させたほうがいいよと教えてくれた。確かにそうやなと思ったが、健康ランドは下駄箱の鍵を預けたりして邪魔くさく、もう風呂に入って寝るだけの体勢になっているので、他府県ナンバーのバイクはそっとしといてくれろやろうという予想と、日本人の良心を信じることにして床に就いた。
走行距離 391.68km

9/23
 おじさんのいびきで何回か目が覚めたものの、案外とゆっくり寝れて、朝は6時過ぎに起きだした。せっかく健康ランドに来ているので、朝風呂に入って体を起こしつつ暖を取って出発した。朝7時半頃は太陽の光も弱々しく、まだ風は冷たいが、車の少ない道路を快調に進み、昨日のリベンジで八戸城に向かった。城は町の中心部にあるので、早朝に訪れるのが車も人も少なくてベストだろう。
 八戸城は大半が公官庁と公共施設になっているので、城跡として残っているのは僅かでしかなかったが、訪れてみるとわんさか学生がいた。おいおい今日は日曜やでと思ったが、どうやらどこかに行く為の集合場所になっているらしい。運が悪い。
 学生の話し声の中、落ち着かないまま八戸城の散策を済ませ、国道104号線を西へ向かい、根城を目指した。根城は三戸の南部氏ではなく、八戸南部氏の根拠地だったところで、南朝方の北畠氏に従って甲斐から入部した南部氏が築いた。江戸時代の大名となった三戸の南部氏とはかなりの遠縁ではあるが、一族と言えば一族で、江戸時代は伊達氏への抑えとして岩手の遠野に所領をもっていたが、戦国時代まではここで勢力を培っていた。現在は発掘されて、城の国道より北側の部分が芝生を敷いて保護され、本丸部分には中世的な建築物を再現している。だが、根城に到着した時間は8時半前で、本丸の部分は入場料がいるので当然9時までは開かず、隣の八戸市博物館も同じく9時までは開かないので、城を散策しても時間が余ってしまって手持ち無沙汰だった。
 ようやく9時に博物館が開館したので入ったが、入口のところで職員の人から、今日は10時からセレモニーがあるので、それに出席されると入場料が無料になりますよと言われたが、これ以上時間を潰す事もできないし、今日は南部氏関連の城やら何やらがたくさん待ち構えているので、入場料を払って見学し、セレモニーが始まる前に退散した。
 八戸から南西方向に国道104号線を下っていくと国道4号線に合流し、南部氏が戦国時代に本拠地とした三戸に着く。この町にある三戸城は、広大な領土を誇った南部氏の居城として大きな規模を持っており、江戸時代に盛岡に移った後も機能が残された為、今も雄大な城跡として健在だ。春には桜が多い名勝らしいが、この季節には当然狂い咲きもしていない。
 三戸からそのまま馬渕川沿いの快走路を行くと、二戸市街に九戸城がある。なぜ九戸村ではなく二戸市にあるのかというのは不思議だが、多分九戸氏の発祥は九戸村で、二戸に進出して城を築いたが、城の名前は姓からそう付けたというところではないだろうか。とりあえずそれは置いといて、ここも南部氏とは良くも悪くも関係が深い城だ。城跡では子供達が野球をしていて微笑ましかったが、ぶらぶらと散策をしていて二ノ丸から本丸へ渡ろうとした時、足を置いたところが草だけで土がなく、すっぽりと抜けて断崖から落ちそうになった。幸い膝ぐらいまでで止まったが、借り物のカメラケースが草と擦れて緑色になってしまった。城の散策、特に山城は気を付けんといかんね。まあ死人が出んでよかったと貸主には伝えておこう。
 ここからは、淡々と国道4号線を下っていくという手もあるが、盛岡まで興味の湧きそうなところはないし、やたらとデカイ岩手県は難敵である為、一気に高速で行く事にした。途中昼食を摂ろうと岩手山S.A.に入ったが、日曜日とあってえら混みだったので、岩手山の遠景だけを写真に収め、次の滝沢P.A.で昼食を摂った。
 盛岡I.C.で東北道から一般道に入り、いよいよ江戸時代の南部氏の居城であった盛岡城を目指す。盛岡市街は岩手第1の都市だけあって交通量は多いが、街路樹が多いせいか走っていても気持ちがいい。誰かが、盛岡は街に木があるのではなく、木をそのまま生かして街を造っていると言っていたのを思い出したが、確かに街の風景は森を大事にするヨーロッパの並木道を連想させるような雰囲気がある。日本の都市は木が少なく、面白みのないところが多くてバイクで走るのは嫌いだが、不思議と盛岡は交通量が多くてもそれほど気にならなかった。なかなか良い街だ。
 盛岡の街もなかなか良かったが、当然訪れた盛岡城もかなり良かった。建物もないのに何が良かったかというと、石垣が白っぽい所。盛岡城の石垣は巨岩が多いが、花崗岩でできた石垣は、材質自体がもともと白っぽいので、なんとも淡く優雅な雰囲気を醸し出している。石垣というのが東北に珍しいというのもあるかも知れないが、その完成された形状と、どこが産地かは知らないが、この辺りであることは間違いない独特の色をした巨岩が芸術的で、公園の木々の木陰によく映えている。街も良いが城も良い。盛岡侮りがたし。
 盛岡の市街地から国道4号線を南へ下っていくと、徳丹城跡高水寺城花巻城と連続して史跡が現れる。それらを丹念に回り、花巻から国道283号線で遠野物語の舞台として有名な遠野へと向かった。
 花巻を出たのは4時15分過ぎだったが、すぐ近くの宮沢賢治記念館は4時半閉館だったのでぎりぎり入れず、仕方がないので注文の多いレストランという小説と同じ名前の建物があったので、それだけ写真に収めて東へ再スタートした。途中の登坂車線で、例のごとくスカイラインと併走したりしたが、遠野に入る6時頃にはどっぷりと日は暮れていた。もうこの時間になっては観光もできないので、とりあえず駅の電話ボックスで宿に電話をしてみると、松之屋というところで予約が取れた。とりあえず住所を頼りに松之屋へと向かってみたが、ぐるぐると市街地を回っても見つからず、キョロキョロ探して図らずも城下町の雰囲気を味わってしまう事になった。住所が近いと思われる酒屋さんで聞いてみると、ほんの100mほど行った所の角地にあるらしい。その角地についてみると、看板はなく、のれんだけがかかっているだけで、パッと見ではわからないぐらいだ。
 のれんをくぐると、初老のおじさんが出できて部屋を案内してくれ、あとで下に来て話でもと言うので、とりあえず荷物を置いて駅前で飯を物色し、風呂に入っている間に洗濯させてもらい、一服してから下の部屋へ行った。部屋には、東京から来た3人組の男のお客さんと旅館のおじさんとおばさんで話が盛り上がっていて、えらいフレンドリーなとこやなと思いつつ席に座ると、男の人が持ち込んだ日本酒を注いでくれ、おばさんが適当に煮物をつまみとして持って来てくれた。話によると、おじさんは神戸の出身で、昔は明石の魚住によく釣りに行っていたらしく、家のえらい近くなんで驚いた。おばさんは岩手出身だが学生時代に神戸におり、その時に知り合ったらしい。まさか岩手という遠い土地で、魚住なんていうマイナーな名前が出るとは思わなかったが、ちょっとした接点があるというは何かの縁だろう。優しくしてもらい、なんだか暖かい気持ちになった。
 この日は、持ち込みの日本酒が美味しかった事と、旅の疲れもあって結構酔い、部屋に戻ると布団から出られず意識を失った。
走行距離 265.28km

9/24
 朝、おじさんとおばさんに見送られて出発し、旧家をブラっと見ながらバイクを走らせ、市街地の南にある鍋倉城を1番に散策した。麓には市立の博物館があったが、山から下りても開く時間ではなかったので、遠野を後にして西へ向かった。
 昨日も通った国道283号線沿いにはJRの釜石線が走っているが、途中のコンビニで朝飯を食べていると、中学生や高校生ぐらいの歳のやつらが10人近く駅に来ていた。旅に出てると曜日や日付の感覚が飛んでしまっているが、そういえば今日は秋分の日の振替休日か。こんな朝早くからどこへ行くのかと思って地図を見てみると、釜石や遠野に行っても何も無いやろうけど、花巻もたいしたものは無かったから、花巻で乗り換えて北上か盛岡に行くのかな。自分らもあれぐらいの時は、街に行くのは結構イベントやったから朝早く出て行ったもんな。
 昨日来た国道283号線から分かれて国道107号線に入り、国道456号線を南下して江刺に入る。江刺市街の外れには岩谷堂城という城があるが、今では学校の敷地などになっていてあまり散策できそうにないものの、あまり造成されてなさそうなので部分部分には土塁などが残っていそうだ。後で分かったのだが、山頂に八幡神社があってそこが本丸らしい。なんかあるなとは思っていたが、結局散策しないままだった。また、城址碑を探して結構時間がかかってしまい、麓で発見するまで江刺市街を行ったり来たりする羽目になった。
 江刺からは東北の大河である北上川を渡って胆沢城跡に寄り、今度は国道4号線で南下して水沢市街に入った。水沢には水沢城という東北では結構重要な城があり、地図上に水沢公園というのがあるのでこれやと思って行ってみると、どうやら寺院の跡地を公園にしたもののようで、城跡ではないらしい。仕方がないので駅前に行って案内板を覗いてみようと出発する直前、近所に住んでいるおじさんに声を掛けられた。そのおじさんとはなんとなくどこ行くのか的な会話しかしなかったが、駅でも残念ながら城に関する記載を見つけられなかったので、今思えばおじさんに聞いとくべきやった。なぜあの時にそこまで頭が回らんかったか不思議だ。その後もブラブラと走ってみたが、真城や古城という字はあっても結局城は見つけられず、まだまだ先があるので水沢を後にした。
 水沢から国道4号線沿いに少し南下すると、奥州藤原氏の栄華を伝える中尊寺がある。言わずと知れた観光スポットだ。この日は連休という事もあって、国道4号線は観光バスやら観光客で中尊寺周辺に渋滞が発生していた。そこはバイクの身軽さで切り抜けたが、駐車場にはパッと見ただけでかなりのバスが止まっており、思わず憂鬱になって中尊寺に行く事を諦めかけたが、東北に来ることはそうできないので、今行っとかんとどないすんねんと自分を叱りつけて中尊寺に立ち寄った。
 予想通り参道には人が溢れ、自分のペースで歩くのもままならないほどだった。中尊寺に向かって山を登って行ったが、やはりメインは金色堂のようで、途中の中尊寺は拝観料が要らなかったのに、奥にある金色堂は拝観料を取られた上、ガラス張りで宗教的な厳かさは微塵もない。比叡山の根本中堂が持つ荘厳さと対照的で、宗教施設もここまでくるとただの俗な観光地でしかないなという印象を抱いた。
 中尊寺を出た後は、国道とJR線越しに反対にある高館義経堂に徒歩で行ってみたが、ここも拝観料が要るらしく、入口から中をざっと見て帰ってきた。この辺りが観光地なのは分かるが、ちょっと金を取りすぎなんとちゃうか。金色堂は値段が高いにしても、保存の必要があるからまだわかるが、義経堂は衣川の館跡といわれているだけで、寺院の建立は江戸時代という新しさだ。どうも納得がいかん。
 平泉を出る頃には昼は過ぎていたので国道沿いのファミレスで昼食を済ませ、一関城跡とされる釣山公園を散策し、いよいよ岩手県を越えて迫を目指す。なぜ迫町かというと、そこに佐沼城があるからだ。何回も言うが、まるで登山家ならぬ登城家のようだ。
 途中でこの旅の2000マイル走行を達成しながら、国道342号線から国道346号線に入り、慌しく佐沼城とその三ノ丸跡にある迫町歴史博物館に立ち寄った。城自体は本丸が公園として残っている程度だが、ここは伊達家臣亘理氏が江戸時代には統治していた。数ある伊達家臣の中で、なぜか亘理という名前はインパクトがあって昔から好きで、といっても武将はよく知らないのだが、その好きな名前と所縁のある所に来たのは、なんとなく感慨深いものかある。
 宮城で忘れてはならない城は、なんといっても岩出山城。あの奥州の若き覇王伊達政宗が一時本拠とした城として有名で、今回のツーリングの目標のひとつでもあった。佐沼城に行く前、佐沼城と岩出山城では、国道4号線から見ると東西に離れてルートが取りづらいので、岩出山城を優先して佐沼城を諦めようとも思ったが、気合で踏ん張って迫町まで来た。ここからはひたすら西へ国道4号線を越えて走らなければならない。だか、そんな都合のいい国道はないので、県道1号線を始めとする県道達を駆使してようやく岩出山町にまでたどり着いた。
 しかし、岩出山町に入ったのは午後4時を過ぎていた。やはり1本道ではない為、予想以上に遠回りで距離も増えるし、時間もかかる。時間が無いため、観光地として聞く有備館の前を素通りし、岩出山城跡の城山公園へ入ったが、入口は非常に急峻な坂道だ。しかし、そこはリッターバイクのトルクにものをいわせて駐車城まで上がると、目の前に民宿が現れた。城跡というロケーション、そして夕暮れが迫る時間という絶妙な条件で出現した民宿に、思わず「今日空いてますか」と聞きそうになった。ここのところ、秋田や青森で遭遇した寒波もあって宿にずっと泊まっていたが、今日と明日は天候も心配ないし、だいぶ南下もしてきたことやし、宿泊費を節約する為に野宿でいくかと心に決めていたのだが、危うく自ら覆しかけた。
 巨大な岩出山城を散策し、岩出山町を後にする頃には、もう陽は落ちかけていた。だが、今日は目標通り回ることができ、あとは宿泊場所と風呂を探すだけだ。ざっと地図を見ると、ここから1番近い古川にならそこそこありそうだが、近すぎるのでもったいない。できれば、明日の為にもできるだけゲインするのが望ましいので、石巻まで足を延ばす事にした。
 古川で特に城の表示がなかったので、再び国道4号線を跨ぎ、国道108号線に入ってひたすら進んでいくと石巻へと到着する。国道沿いの店で晩飯を済ませ、風呂を探す為にとりあえず石巻駅に行って見ると、たまたま駅前に交番があったので手っ取り早く場所を聞いた。対応したのは若い婦警さんで、一生懸命東北弁混じりに説明してくれたのがとてもめんこかった。あくまでもかわいいではなく、めんこいという感じなのがポイントやったね。
 説明の時にくれた観光案内図には、石巻が石ノ森章太郎所縁の地だけに、その作品に関する施設も多く記されていた。ちょっと寄ってみたいけど、明日は連休明けの火曜日やから、ほとんど休館になってるはず。ずっと旅をしていると、必ずそういう日がある。こればっかりは仕方がない。
 婦警さんに教えてもらったスーパー銭湯は、最近できたやまとの湯というところだったが、実はスーパー銭湯ではなく、やまと温泉という源泉を持つ温泉施設らしい。つくりは完全に流行のスーパー銭湯だが、軽食だけではなく食事もできるようにしてあるというオールインワンの施設で、どちらかといえば健康ランドに近い。中の施設も結構充実していて、サウナや露天風呂はなかなか良かった。
 お風呂を上がって水分補給しながら地図を整理し終え、駐車場で出る用意をしている時に神戸からきたんかと声を掛けられて、やっぱり神戸ナンバーは知名度高いなと思いつつ、湯冷めに気をつけながら寝床を探しに出発した。銭湯で確認した時に、芝生が敷いてあるという矢本海浜緑地に目星をつけて出発したが、現地は街灯もないので探すのに時間が少しかかった。ようやく現地に着くと、なんと入口に門があり、夜間は閉ざしているとの文字が。待てぃ。もう11時前やっちゅうねん。ということで、入口門扉の近くの川沿いに芝生ゾーンを見つけ、もう動きたくない気持ちが満載だったので、そこにテントを張って休むことにした。
走行距離 251.52km

〜後編へ続く〜
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