要害山城 所在地 山梨県甲府市
JR甲府駅北東4km
区分 山城
最終訪問日 2012/10/14
要害山城本丸と信玄公誕生之地の碑 要害城や麓の積翠寺の名を取って積翠山城とも呼ばれる。
 要害山城は、甲斐守護武田家の居館躑躅ヶ崎館の詰城だが、そもそもの武田家の累代の守護所は石和にあった。叔父信恵を破って武田惣領となり、甲斐を統一していった猛将武田信虎は、永正16年(1519)に守護所を躑躅ヶ崎館に移し、新たな城下町を造って家臣を集住させたのだが、これには戦国大名としての専制的な大名権力の確立と、内訌を収めたという人心刷新の意味があったのだろう。そして、館の防備を固めるべく、後に甲府城が築かれた一条小山や湯村山に築かれた城砦と共に、その防御の中心を担ったのがこの要害山城である。
 築城は、駒井政武の高白斎記により、永正17年(1520)の6月とはっきり判っており、これは戦国時代前期の城としては珍しい。城のある積翠寺一帯はこの政武の領地で、その中で丸山と呼ばれる山が城地に選定され、普請が始められたとある。
 築城の翌年には、今川家臣福島正成が甲斐に侵攻しているが、信虎夫人は躑躅ヶ崎館からこの城へ避難し、後の信玄である嫡子晴信を産んだとされ、本丸には信玄公誕生之地の碑が建つ。ただ、晴信は積翠寺で誕生したとの説もあり、積翠寺には信玄の産湯の井戸があるという。
 その後、要害山城は躑躅ヶ崎館と共に武田氏の本拠として在り続け、信虎の甲斐統一や天文10年(1541)の晴信(信玄)による信虎追放、信玄による武田氏全盛期の創出を見届けた。その後、天正9年(1581)に晴信の子勝頼が新府城を築いて本拠を移したが、翌年の織田徳川連合軍の侵攻で武田氏が滅んだ為、移転は不完全に終わったようで、織田家臣として甲斐一国を統治した河尻秀隆は躑躅ヶ崎館を修復して使用したとされており、要害山城に求められる詰の役割も変わらなかったと思われる。その秀隆も、同年6月の本能寺の変の後、旧武田家臣の蜂起で討たれ、甲斐では北条氏と徳川氏の争奪戦である天正壬午の乱が発生するが、両者の和睦によって正式に徳川領となり、躑躅ヶ崎館には家康の代官として平岩親吉が入城し、この城も維持された。
石垣の桝形を持つ城門 天正18年(1590)の小田原征伐後、家康は関東へ移封となり、代わって家康監視の使命を帯びた秀吉の一門羽柴秀勝、同じく古参家臣の加藤光泰、同じく親族の浅野長政・幸長父子が相次いで甲斐を与えられ、浅野時代には甲府城が完成して躑躅ヶ崎館は廃城となったが、要害山城は甲府城の支城、詰城として維持されたらしい。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、甲斐が再び徳川家直轄となったことから、ようやく使命を終えた城は廃された。
 城の構造としては、頂上部を長方形に削平して本丸を造り、西側の大手筋にはただひたすらに幾重にも郭と門を構築しているという感じだ。武田3代で繰り返し修築が行われ、光泰の時代にも改修されているが、お椀を伏せたような山容で削平地を取れる場所が少ないということもあって、縄張をあまり変えずに動線部分の防御力の増強という改修が繰り返されたのかもしれない。郭が一般に見られるような尾根筋を削り取った段郭ではなく、大きな帯郭という感じの郭が多いのは、その表れだろうか。改修拡張の結果、郭の数が多くなり、平地の面積を合計すると相当数の兵が駐屯できたと思われ、桝形を持つ虎口と郭ごとに折れ曲がる動線でより防御を固めている。一方、本丸から東側の搦手へ進むと、こちらは稜線になる為、幾重もの堀切や竪堀が切られて防御を固めていた。どちら側も防備は固く、これでもかと同じような構造物を繰り返し設けているが、地形に基づく防衛思想がまるで違っていて面白い。
 要害温泉の入口から登山道が出ており、頂上までは20分程度の行程である。登山道沿いには竪堀や土塁、石垣跡が幾つも登場し、なかなか飽きさせない。特に不動郭の近くからは遺構が多くなり、桝形を伴う門跡や大きな土塁、大きな削平地を持つ郭が連続して続き、それらの後に土塁で囲われた本丸があった。本丸を囲う土塁には石垣の痕跡があり、築城時ではなく後の改修時からかと思われるが、石垣造であったようだ。また、本丸搦手にも石積で補強されたという珍しい堀切が穿たれている。
本丸搦手の石塁の堀切 詳しい縄張図などが無く、全体の案内としては情報不足の感が拭えないが、散策で城の規模の大きさを感じられ、かなり満足感のある城だった。散策して下りて来ると、要害温泉の看板に、登山の後に温泉はいかが、という文字があったが、これは恐ろしいほどの殺し文句だろう。疲れた足が自動的に温泉に向かいそうなほど魅力と引力を感じたが、時間の関係もあって断腸の思いで諦めた。だが、この看板の通り、ゆっくり半日かけて散策と温泉を満喫するのもかなり良さそうで、お薦めかもしれない。