谷村城 所在地 山梨県都留市
富士急行谷村駅北東100m都留市役所付近
区分 平城
最終訪問日 2012/10/13
谷村第一小学校の敷地内にある城址碑 一般には、甲斐源氏武田氏の重臣小山田氏が居城とした城とされ、居館形式であった為、谷村館とも呼ばれる。ただし、小山田氏時代の谷村城は別の場所にあり、この城は豊臣政権時代の築城とする説もあるようだ。
 小山田氏の本貫は武蔵国で、桓武平氏の平良文を祖とする坂東八平氏のひとつ、秩父氏の出であり、秩父重弘の次男有弘が武蔵国小山田荘を領して小山田別当と呼ばれ、子行重の系統が小山田氏になったという。しかし、その数世代前の永承6年(1051)から始まる前九年の役で、秩父将恒の子に小山田恒任という武将が見えることから、複数の系統の小山田氏が存在した可能性がある。いずれにせよ、武蔵での小山田氏は、同じ秩父党の畠山重忠が討たれた元久2年(1205)の争乱に巻き込まれて没落しており、甲斐小山田氏との繋がりや都留に根を下ろした経緯などはよく分かっていない。ただ、承久3年(1221)の承久の乱の際には東山道の幕府軍に小山田氏が加わっており、この頃には既に都留に在ったようだ。このほかには、南北朝時代に新田義貞に従って湊川で討死した小山田高家という武将もいるが、武蔵の出とされることから本貫に残った小山田氏の末裔と思われ、甲斐小山田氏とは関係ないとみられる。
 小山田氏の郡内領主としての活動は、南北朝合一後から見え始め、応永23年(1416)には、前関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対して叛乱を起こした上杉禅秀の乱で禅秀に加担した甲斐守護武田信満に従い、小山田信澄が信満と共に木賊山で自刃したという。この信澄の娘は信満に嫁ぎ、信満の嫡子信重を産んでいることから、この頃には小山田氏は守護家と婚姻できるほどの地位に在ったようだ。
 信満の死後、甲斐守護職は信満の弟信元、続いて信重が継ぐが、国内の情勢は、信満の死後に同族逸見氏の台頭があり、その打倒の為に頼った守護代跡部氏が後に専横するなど、武田家は領主としての立場が不安定となっていた。これに伴い、国内諸豪族にも自立の動きが見え始め、小山田氏も独立領主としての性格を強めていく。その後、武田家は信昌が跡部氏の排斥に成功するが、嫡子信縄の家督継承後に信昌が次男信恵への家督相続を望んだことから、諸豪族を巻き込んだ家督争いが起きてしまう。
 この争いで小山田氏は信恵に与したが、足利茶々丸捜索を口実とした北条早雲の侵攻などもあり、駿甲国境を領する穴山氏同様、次第に武田氏と北条氏への両属という性格を持ち始めたようだ。また、武田家の内訌は、明応7年(1498)の大地震での和睦の後、信昌の死後に再燃し、永正5年(1508)の坊ヶ峰合戦で信縄の子信虎が信恵を討って終結するが、小山田氏もその直後に信虎と戦って当主弥太郎が討死している。
 弥太郎の死後、小山田氏は信虎に臣従し、当主越中守信有の室に信虎の妹を迎え、信虎に従って国内の大井氏や国外の今川氏、北条氏と戦った。また、越中守信有は領内の整備にも力を入れ、猿橋を架けるなど、交通の要衝だが耕地が少ないという郡内の特性を生かせるよう交通と通商の政策を進めている。また、それまで居館としていた中津森館が享禄3年(1530)に焼失したのを機に、より城下の発展が望める谷村に天文元年(1532)に居館を新築した。これが谷村城で、完成の時には信虎を始め、甲斐国内の有力豪族が訪れて落成を祝ったという。
 その後、小山田氏は武田重臣として活躍し、信虎の子晴信(信玄)の治世には武田軍の中核を担い、越中守信有、出羽守信有、弥三郎信有、信茂と4代に渡って谷村を本拠とした。信玄の没後、武田家は信玄の四男勝頼が実質的に当主となり、信玄も落とせなかった高天神城を攻略するなどしたが、天正3年(1575)の長篠の合戦の敗戦以降は外交的失策も重なり、同10年(1582)には織田徳川連合軍の侵攻で滅んでしまう。この滅亡時、勝頼が落ち延び先として頼ったのは信茂であったが、岩殿山城へ向かう勝頼一行を笹子峠で追い返し、最終的に天目山での自刃に追い込んだ為、織田家に降伏した信茂はこの際の不忠を咎められて自刃させられ、小山田家も滅んでしまった。
 武田家の滅亡後、甲斐一国は河尻秀隆が領し、谷村にもその支配が及んだが、同年6月には本能寺の変が発生し、国衆の一揆によって秀隆は討たれてしまう。そして甲斐は徳川氏と北条氏の草刈り場となり、郡内は北条氏が抑えたが、両者の和睦によって甲斐は徳川氏の切り取り次第となった為、谷村城には鳥居元忠が配された。天正18年(1590)の家康の関東移封後は甲斐府中に入部した大名の属城となり、同年に羽柴秀勝の家臣三輪近家、翌年に加藤光泰の養子光吉、更にその2年後には浅野長政の家老氏重が城主となっている。この頃は詰城の勝山城と一体運用されており、谷村城主がすなわち勝山城主でもあったようだ。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、元忠の三男成次が入って再び鳥居氏の支配となり、甲府へ入部した家康の八男義直や秀忠の次男忠長に仕え、附家老となっている。しかし、それが災いし、成次の子忠房は寛永9年(1632)の忠長の失脚に連座して改易となってしまい、翌年には秋元泰朝が入って3代に渡って支配したが、宝永元年(1704)の秋元氏転封後は天領となって城は廃城となった。ただ、谷村にはこの後も行政拠点としての機能は残され、谷村陣屋が造られている。
 城の構造は、現在の都留市役所から谷村第一小学校にかけて堀に囲まれた本丸があり、小学校の東北側下に二ノ丸、高尾神社付近に三ノ丸と続いていた。ただ、防御力はあまり期待されておらず、江戸時代に描かれた詳細な絵図に勝山城と繋がる橋が見えるように、その役割は後背の勝山城が担っていたようだ。
 現在は、城跡が都留市役所や谷村第一小学校の敷地となっているため、遺構は見られず、小学校の南側入口の所に城址碑が建つのみであった。しかも、小学校付近をあまりウロウロして警戒されるのは嫌という心理が働くのか、妙に周囲の散策もしにくい雰囲気がある。それ以外では、城本体の遺構ではないが、桂川を越えた背後の勝山城に登れば勝山城と谷村城を結んだという橋の礎石らしきものが見えるほか、小学校付近には、城の後身となった谷村陣屋跡の碑も建っているらしい。