躑躅ヶ崎館 所在地 山梨県甲府市
JR甲府駅北2km
区分 平城・居館
最終訪問日 2012/10/14
城址碑と武田神社の鳥居 戦国時代の武田氏が本拠とした居館。
 武田氏は、清和源氏の本流河内源氏の流れで、永承6年(1051)から始まる前九年の役で活躍した源頼義の三男に新羅三郎義光がおり、この義光の子義清が常陸国那珂郡武田郷を領して武田冠者と呼ばれたことに始まる。義清は、子清光の横暴が原因で後に甲斐国に配流されたが、父祖が甲斐守に任官していたこともあり、甲斐で勢力を拡げてその子孫は甲斐源氏となった。ちなみに、義清の叔父は源氏惣領である八幡太郎義家であり、兄には常陸に残って佐竹氏の祖となった義業がいる。
 甲斐に入った義清は、清光に逸見荘を任せ、清光は逸見冠者を名乗った。清光の子には、双子という逸見光長と武田信義、子とも弟ともいわれる加賀美遠光がおり、遠光は小笠原氏や南部氏の祖となっている。惣領は、当初は長男光長が就いたが、後に信義が就き、以降は信義の系統が相伝した。
 信義は、治承4年(1180)の以仁王の令旨に応じて兵を挙げ、甲斐の実権を掌握し、戦いの中で駿河や遠江、信濃へと勢力を伸ばしていったが、その勢力や独立性、頼朝や木曾義仲に匹敵する家格から警戒され、甲斐源氏は頼朝の分断工作を受けることとなる。信義自身は頼朝追討の命を受けたと疑われ、駿河を支配した信義の長男一条忠頼も宴席で暗殺されたほか、次男板垣兼信は配流となり、遠江守護だった信義の叔父安田義定も失脚した上、謀反の疑いで討たれた。その一方で、親頼朝だった遠光は信濃守に任官されるなど、優遇された者もおり、このような分断工作で勢力は分散し、鎌倉時代の武田氏は家格の割に大きな勢力を築けず、信義の子信光の頃に甲斐と安芸の守護職に任じられた程度に留まっている。そして、信光の孫信時は安芸守護として安芸に下向し、甲斐に残った弟政綱は石和流武田氏となった。ちなみに、信義が決起したのも石和であり、鎌倉時代の武田氏は石和をずっと本拠地にしていたようだ。
 鎌倉末期の元弘の乱では、安芸守護の信武が鎌倉幕府に与したのに対し、甲斐守護の庶家石和流武田氏の政義が後醍醐天皇に従って惣領となるが、南北朝期には信武が北朝に、政義が南朝に属した為、信武が両国の守護に補されて甲斐に再入部した。以降、甲斐守護は信武の子信成の系が世襲したが、信成の孫信満が応永23年(1416)に義兄弟の上杉禅秀の乱に加担して自刃すると、甲斐は争乱となって行く。
躑躅ヶ崎館鳥瞰図 この信満自刃後、逸見氏が守護を窺って台頭し、幕府は信満の弟信元を守護に任じて下向させたが、信元が同27年(1420)に没すると、信満の子信長とその子伊豆千代丸が守護代跡部氏と協力して逸見氏と対抗し、その一方で幕府は信長の兄信重を守護とするなど、甲斐の情勢は混迷を極めた。その後、跡部氏が伊豆千代丸と対立して信重側に転じ、信重は永享10年(1438)に入国できたが、今度は跡部氏の勢力が大きくなり過ぎ、孫信昌が寛正6年(1465)に討伐に及んでいる。だが、その信正は嫡子信縄に家督を譲りながらも、次男信恵への相続を望んだ為に家督争いを引き起こし、この内訌の中で国人の台頭や国外勢力の介入を招いてしまう。この争乱に終止符を打ったのは信縄の子信虎で、永正5年(1508)に信恵を討ち、国内諸豪族を次々に切り従えていった。そして、信虎が石和八幡宮の西1kmにあった川田館から同16年(1519)に新たに築いて移った拠点が、この躑躅ヶ崎館である。
 信虎は、居館を将軍御所に似せて造り、南の城下を碁盤の目状にして計画的に造成し、城下に家臣を集住させた。これは、専制的大名権力確立の表れでもある。また、移転翌年には後背に詰城となる要害山城を築き、大永元年(1521)の今川家の甲斐侵入の際には信虎夫人がこの城に退避し、そこで晴信(信玄)を産んだという。
 築城後、躑躅ヶ崎館は、信虎の甲斐統一や天文10年(1541)の晴信(信玄)による信虎追放を経て、信玄期も本拠地としてあり続け、戦火に遭うことも無く、その子勝頼の時の天正9年(1581)まで使われた。勝頼は新府城への移転を行ったが、翌年の春には織田徳川連合軍の侵攻によって滅んだ為に不完全で、館も破却はされたがすぐ修復可能であったらしい。その為、信長が甲斐へ入国した際に滞在したほか、甲斐を治めた織田家臣河尻秀隆も治所にしたという。その後、秀隆は同年の本能寺の変後の武田旧臣の蜂起で討たれ、徳川家と北条家の争奪戦である天正壬午の乱を経て家康が甲斐一国を押さえ、甲斐を任された代官平岩親吉が城代となって館を修築した。天正18年(1590)の小田原征伐後には、羽柴秀勝が要害山城に入っているが、それはこの館を含めてのことだったと思われる。すぐ南の江戸期の本城甲府城は、親吉時代から築城工事が開始され、秀勝、加藤光泰を挟んで文禄2年(1593)に入部した浅野長政・幸長父子の時代に完成しており、これに伴って館はその役目を終えた。それは一説に翌同3年(1594)という。
 館は、中世的な方形居館で、西郭、中郭、東郭の3部分に分かれているが、東郭と中郭が築城当時の大きさで、天文20年(1551)に西郭が増設され、西郭は水堀で、東郭と中郭は石垣で区画される。信玄時代には、それらの虎口を固めるように西郭の北に味噌郭、東郭の北に御隠居郭という水堀で画された郭が造られたといい、武田氏滅亡後には天守台や西郭の南に梅翁郭も設けられた。また、大手は城の東にあったが、武田氏時代は丸馬出、その滅亡後は石塁があったことが発掘調査で判明している。
遺構の発掘と復元がされている武田神社東側の大手跡 現在の館は、中郭、東郭の部分が武田神社境内に、西郭は神社に付随する広場となっており、他の郭は田圃や住宅地と化していた。また、神社創建の際に南の石垣を崩して正門を造った為、この部分は旧状とは違っている。
 武田神社は、甲府観光の目玉で、訪れた日も駐車場が満車だったが、史跡広場として土塁の復元展示などがある東の大手周辺は人もおらず、じっくりと見て回れた。最も古城らしい寂びた雰囲気があるのは、この大手周辺かもしれない。ちなみに、館の東に張り出して来ている峰が躑躅ヶ崎で、これが名の元である。