須沢城 所在地 山梨県南アルプス市
中部横断道白根I.C.北西5.5km
区分 山城
最終訪問日 2012/10/13
須沢城跡の小さな公園 須沢城は、武田信玄が治水の為に流路を現在の川筋に変えたとの伝承が残る御勅使川の北側にある。この御勅使川は甲斐でも有数の暴れ川で、氾濫による流路の変更が幾度もあり、現流路を含めて5本の流路が確認されているという。また、暴れ川が運ぶ砂礫は扇状地となり、御勅使川扇状地は日本三代扇状地に数えられている。
 須沢城の築城年代や廃城年代は不明だが、甲斐国志には御勅使十郎や塩谷三郎という武将が居したことが見え、鎌倉時代にはすでに城はあったようだ。両氏の詳細は不明だが、御勅使氏はその名字からして、御勅使川扇状地を開拓した開発領主だったのだろう。
 城が有名になるのは南北朝時代で、観応年間(1350-52)のことである。建武の新政の後、尊氏は建武政権から離脱し、やがて京都を奪って室町幕府を成立させるのだが、初期の幕府で絶大な権力を得たのは尊氏の弟直義と、足利家の執事であった高師直であった。幕府の政務を取り仕切る直義と、軍事面での貢献が大きかった師直は性格も合わず、また、二頭体制であったが故の尊氏と直義の対立も合わさり、師直の執事職罷免から師直による直義襲撃と直義の出家、そして直義の南朝降伏と挙兵へと事態は深刻化していく。この影響は関東にも及び、師直の従兄弟で後の関東管領である関東執事を務める高師冬は、直義出家に伴って上洛する尊氏の嫡子義詮の代わりとして新たに鎌倉に下ってきた尊氏の子基氏を補佐したが、高氏一派の手によって直義側近の上杉重能が暗殺されたことにより、同じく執事職に在った上杉憲顕と対立するようになる。
 両者の対立は、当初は師冬が基氏を戴いたことから優位であったが、後に基氏を憲顕に奪われて師冬は鎌倉を追われた。そして、観応元年(1350)に甲斐の武田一族逸見孫六入道を頼り、孫六入道の城であったこの須沢城に籠城したが、憲顕の子憲将や同じく憲顕の子で重能の養子でもある能憲、諏訪大社下社大祝の金刺隆種ら6千余の兵に囲まれてしまう。そして、翌年の正月、城の大手での激戦を横目に背後の山に廻り込まれて城内に乱入された為、覚悟を決めた師冬は自刃を遂げ、城も落城した。
字がかすれている説明板 旧御勅使川の流路で、今は南アルプス街道と名前の付いた県道20号線を西に走り、途中で御勅使川を渡って果樹園の中を川沿いに遡って行くと、集落の外れにテニスコートが出てくるが、この道をそのまま山へと入っていけば、鋭角に分岐する交差点に善応寺と須沢城の表示がある。この分岐した道をしばらく行くと舗装が途切れるが、その未舗装の道を数100m進んだ先に須沢城はあった。
 現在の城跡は、東屋やベンチなどが設置された小さな公園となっている。白根町時代の発掘調査の報告書によれば、この公園付近はあくまで推定地ということらしいのだが、地中レーダー探査では、城の構造物の一部と思しき溝が確認された。だが、それ以降は調査されることもなかったようで、設置されていた説明板も字が追えないほどかすれてしまっており、内容は半分程度しか判読できなくなっている。周囲を見渡すと、当時の遺構か後世の造成か全く見当は付かないが、公園の削平地と土壇のような地形があり、土壇の上には室町期の宝篋印塔が祀られていた。この土壇は土塁の跡かとも思ったが、塚である可能性もあるらしい。土壇の裏は道となって削られており、峰筋の突端部で郭があったような感じにも思えるが、道を通す為に削られている為、遺構があったとしても完全に消滅したと思われる。また、道の向こう側にはその残骸のような地形が残っているのだが、その下は崖となっており、段郭などはなさそうだ。城の歴史から考えるとそれほど小さい城とも思えず、周囲には遺構も残っていそうなのだが、現在の公園周辺は果樹園となっており、野生動物除けの柵などが厳重に設けられている為、散策もままならなかった。