能見城 所在地 山梨県韮崎市
JR穴山駅東350m県道17号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2012/10/13
能見城址碑 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。
 穴山氏は、甲斐源氏武田家の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異説もあり、在地豪族としての穴山氏が既に存在していたが、逸見氏と武田氏の守護を巡る争いの中で穴山氏を取り込む為に義武が養子として送り込まれたともいわれる。しかし、義武を始祖とする説は系図にあるのみで裏付けに乏しく、義武入嗣説も、父信武の時代である元弘の乱から南北朝時代前期の頃の逸見氏はそれほど有力ではなく、守護職を巡って争ったのは主に南北朝時代終結後であることから、時代的に理由としては薄い。また、穴山氏は後に河内地方に本拠を移すのだが、その年代は南北朝時代終結直後とも15世紀中頃ともいわれ、何かと穴山氏の来歴には不明な点が多いようだ。いずれにしても、穴山にある城ということが穴山氏築城説の根拠なのだが、穴山氏の居館とされる場所から少し離れている割に防御力を大きく期待できるほどの高さが無く、詰城とするには理由としてやや弱いのではないだろうか。
 2つ目の築城説は、武田勝頼による天正9年(1581)の新府城築城に伴って支城として築かれたという説で、3つ目の説は、翌年の天正壬午の乱で新府城に本陣を置いた家康による築城という説だが、どちらも、能見城と、七里岩上を横断するように築かれた能見城防塁をセットとして、諏訪方面に対する前線として築かれたとする。
頂上西側の段郭らしき地形 勝頼築城説とするならば、距離から考えて前線というよりは惣構えの防塁と考えられ、能見城はその見張台兼中核施設という役割があったのだろう。そして、新しい府中となるはずだった新府城の城下町が、能見城付近まで計画されていたことになるが、能見城から新府城までは1.5kmほどの距離であり、一国の府中と考えるならば有り得ない大きさではない。また、反対側の新府城南方にも僅かに防塁が存在していることから、東西の川筋と南北の防塁で城下町を囲んだ姿が浮かんでくる。ただ、新府城すら未完成だったのに能見城や防塁の整備まで手が回せたかを考えると、時間的には微妙なのかもしれない。
 3つ目の家康築城説の場合は、能見城と能見城防塁は紛れも無く前線である。この時、家康は8千の兵で新府城に本陣を置いたが、対する北条軍は若神子に4万以上の兵を展開しており、兵力差から野戦決着は有り得ず、防御を固めつつ情勢の変化に対応する持久戦法を採らざるを得ない。そして、その方針に従って防備を固める為に能見城が築城され、防塁が築かれたのだろう。実際、家康は対陣しつつ別働隊で北条軍の補給線となる小諸城を攻略し、甲斐を切り取り次第とする和睦を北条氏と結んでいる。
 城は、天正壬午の乱の後は使われず、新府城と同様に放棄されたとみられ、平成10年と16年に発掘調査があったようだが、全貌の解明には至っていない。また、本丸と思われる頂上部には何らかの施設が建ち、城址の看板と守屋一族発祥の地の碑があるのみで、説明板の類も無かった。ちなみに、発祥の地の碑には、武田信玄の家臣である守屋定知なる武将が治めた地域とあり、定知が城将を務めたという伝承があるようだ。ただ、定知自身の事跡が不明な為、詳しいことはよく分からない。
郭跡の可能性がある頂上北側の平坦部分 穴山駅から東へ行き、最初の交差点を右折すると、山へ入る道が斜めに出ている。この道をしばらく登り、折り返すように左折して山へ入っていけば、すぐに城跡へと辿り着く。城の構造としては、頂上部が本丸で、頂上部の南にある長靖寺という無主の寺院の周辺がやや下がっており、この辺りが次段となるのだろうか。頂上部の施設がある部分は、周囲から盛り上がっているが、これが往時の地形だったのか施設建設の際の盛り土なのかは判断できなかった。本丸の削平地としては、この施設一帯と、登ってきた道を挟んで反対側になる東方向が同じ高さで、この部分は藪化していて入れなかったものの、見る限りでは土塁跡の様な盛り上がりが確認でき、人の手があまり入っていないのならば遺構がもっと残っている可能性もある。また、頂上部から西方向の登山道沿いにも、段郭のような地形が確認できるのだが、こちらは部分的にコンクリート擁壁などもあり、往時からの地形なのか後世に造られた地形なのか判断できなかった。いずれにしても、地形図などを確認すると頂上部がほぼ方形となる山容であり、複雑な縄張にはなっていないようである。