小山城 所在地 山梨県笛吹市
中央道一宮御坂I.C.南西2km
区分 平山城
最終訪問日 2012/10/14
小山城址碑と土塁外側の空堀 小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた満春の子供といわれているが、信満の嫡子信重によって追放され、信重の子信介が穴山氏を継いだ為に恨みを抱き、この小山城主の時に信重と交戦していた黒坂太郎に与して信重を攻め、自刃に追い込んでいる。
 その後、小山城周辺は伊豆守系ではなく河内を領した穴山宗家の飛び領地に戻ったようで、信介の孫信永が永正年間(1504-21)に城主として在城し、大永3年(1523)には鳥坂峠を越えて侵入してきた南部宗秀と戦っているが、信永は敗れて二ノ宮の常楽寺に落ちて自刃したという。この常楽寺は、城から北西1kmほどの御坂町二之宮の美和神社の近くにあったとされるが、地図を見ても寺名が見当たらなかった。信永が帰依していた寺だったのだろうか。時代背景としては、武田信虎が家督争いを制したものの、従わない国内諸豪族は未だ多く、これらと戦いつつ今川氏の侵入を受けるなど、まだまだ甲斐国内が混乱にあった頃の話である。
 宗秀は、信虎・晴信(信玄)父子に仕えた武将で、元は河内地方の南部城主であり、岩手三戸や青森八戸の南部氏と遠祖を同じくし、本貫である甲斐国南部に残った末裔という。宗秀が鳥坂峠から攻めたということは、甲府盆地を経ずに南の山塊を通る街道経由で小山城まで進軍したはずだが、その距離は長く、それだけ河内から甲府盆地にかけては既に信虎に味方する豪族が多かったということの表れと見ることができる。
城の東側の城址碑と説明板 穴山氏に代わって小山城代となった宗秀は、その後25年に渡って小山城の城代を務めたが、天文17年(1548)に晴信の勘気を受けて追放され、城もその時に廃城になった。その後、天正10年(1582)に武田家は織田・徳川連合軍の侵入で滅亡し、甲斐は織田家臣河尻秀隆が治めたが、これも僅か数ヶ月後に本能寺の変が発生した為、変に乗じて発生した国衆の一揆によって秀隆が討たれてしまい、甲斐は無主の地となる。これにより、隣国の徳川氏と北条氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が発生し、この城も郡内を押さえた北条軍から甲府を押さえる徳川軍の背後を守る為に修築され、徳川家臣鳥居元忠が在城した。そして、北条軍1万が御坂峠から来攻すると、元忠らが2千の兵で迎え討ち、見事撃退している。この戦いは黒駒合戦といい、この勝利によって戦線が膠着し、補給線が脆い北条軍は次第に利を失い、やがて両家の和睦によって甲斐は家康の手に帰した。
 城は、富士山から続く山塊が甲府盆地で尽きる辺りのなだらかな丘陵地にあり、北を天川、南を堀川で守り、城の北側には甲府から御坂峠を越えていく鎌倉街道が通っている。甲斐の中心部は甲府というイメージが強いが、室町時代の守護所は石和にあり、小山城は信虎が躑躅ヶ崎館に拠点を移すまでは、鎌倉街道や守護所との位置関係からも、かなり重要な城と見られていたのではないだろうか。宗秀追放後に一旦廃城となったのも、この本拠移転による重要性の低下という事情があったと思われる。
 城の構造は非常にシンプルで、1辺100m程度の方形単郭の城となっており、南側の土塁は通路開削の為に削られているが、それ以外の土塁とその外の空堀は非常によく残っていた。また、土塁には張り出し部分もあり、櫓が建てられていたようである。
広場となっている郭の内部 現在は、果樹園が広がる農村の中にあり、地区の広場として使われているようで、郭の内部は整地されて運動場のようになっていた。恐らく、盆踊りや祭りなどに使われていると思われ、集落で維持されているなら今後も荒れることは無さそうである。郭の内部は、往時にはどのような様子だったのかは窺い知れないが、もしかすると、内部で更に区画されていたのかもしれない。周辺は細い道が多く、ランドマークも無いが、県道34号線の八千蔵の交差点を南に折れて川を越えればすぐ右手の場所にある。