勝山城 所在地 山梨県都留市
都留市役所北西300m
区分 山城
最終訪問日 2012/10/13
勝山城本丸の城址碑と東照大権現の碑 勝山城というのは各地にある為、都留勝山城や郡内勝山城とも呼ばれる。ただし、甲斐国内には勝山城が複数ある為、甲斐勝山城とは呼ばれない。
 鎌倉時代始め頃からこの郡内地方を統治したのは、武蔵国を本貫とする平良文流の坂東八平氏秩父党の小山田氏であった。小山田氏は、室町時代から甲斐守護の武田と婚姻するなどして勢力を拡げたが、武田信昌の後継を巡る家督争いでは信昌・信恵陣営に立ち、信昌の嫡男信縄と争っている。しかし、信縄の子信虎との戦いで当主であった弥太郎が討死すると、子越中守信有は信虎の妹を室に迎えて臣従した。この越中守信有が、天文元年(1532)にかつての本拠中津森から谷村へ拠点を移した武将であり、一説にこの時に谷村城の詰城として勝山城が築かれたともいう。
 その後、小山田氏は出羽守信有、弥三郎信有、信茂と、越中守信有から3世代4代の当主が谷村を拠点としたが、信茂は天正10年(1582)の武田家滅亡の際に、岩殿山城を目指した武田勝頼を笹子峠で追い返して織田家に降ったことから、織田信忠に不忠を咎められて自刃させられ、小山田氏は滅んだ。そして、織田家臣河尻秀隆が甲斐を支配したが、同年6月の本能寺の変の直後の国衆による一揆で討死し、天正壬午の乱と呼ばれる武田旧領の争奪戦が始まる。この争乱で、北条領との玄関口となる郡内は、当初は北条氏が奪ったのだが、この時に北条氏の手によって勝山城が築かれた可能性も指摘されているようだ。その後、北条氏と家康の和睦が結ばれたことにより、甲斐国内は家康の切り取り次第となり、家康が甲斐一国を押さえ、谷村には鳥居元忠が入った。
勝山城縄張図 天正18年(1590)の小田原征伐後、家康が駿遠三甲信の五ヶ国の太守から北条氏の旧領である関東に移されると、甲斐は対家康の拠点として重要視されるようになり、同年に秀吉の一門の羽柴秀勝が甲斐に入部し、この谷村には家臣三輪近家が入っている。その後、翌年には秀吉の古参配下である加藤光泰が代わって甲斐に入部し、その養子光吉が谷村を治め、光泰が文禄2年(1593)に文禄の役の陣中で病没すると、翌年に秀吉の親族である浅野長政・幸長父子に甲斐が与えられた。そして、その一門家老浅野氏重が谷村に入部するのだが、甲斐国志では勝山城を築いたのはこの氏重としている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、浅野氏は紀伊に移り、谷村城と勝山城には元忠の三男成次が入城し、後に甲斐に入った家康の八男義直、続いて2代将軍秀忠の次男忠長に附家老として仕えた。しかし、子忠房の時の寛永9年(1632)に忠長の改易に連座して配流となってしまい、翌年に秋元泰朝が入ったことにより、独立した本格的な谷村藩が成立している。だが、その秋元氏も宝永元年(1704)の喬知の時に川越へと移された為、僅か3代の治世に過ぎず、以降は天領となって代官が支配した為、城は廃された。
 前述のように勝山城の築城には、天文元年(1532)の小山田氏築城説、天正10年(1582)の北条氏築城説、文禄3年(1594)の浅野氏重築城説の3つがあり、結論が出ていない。中でも小山田氏築城説は最も裏付けに乏しく、小山田氏の詰城とされる大月の岩殿山城と谷村との遠さから勝山城を詰として築いたという推測が根拠で、岩殿山城が小山田氏の城ではなく武田氏の持ち城だったという説とも合わせ、新たな史料の発掘が待たれるところだろう。ちなみに、勝山城では平成17年から21年にかけて発掘調査を行ったが、小山田氏築城説を裏付けるような遺構や遺物は発見されていない。
三ノ丸の虎口 城の構造は、台形の本丸を頂上に、一段下がった南から西にかけて二ノ丸、更にその南に一段下がって三ノ丸があり、頂上から延びる峰筋には、それぞれ東に源生見張台、北に大沢見張台、南に川棚見張台が設けられていた。源生見張台と本丸の間には焔硝蔵の郭があり、焔硝蔵の郭と三ノ丸の間には帯郭もある。また、城の西側中腹には主郭群に沿って穿たれた内堀と呼ぶ空堀があり、城の西には鉤の手状の外堀があったようだ。麓の案内板を見ると、3つの見張台の中では北の大沢見張台だけが厳重で、周囲に空堀を持つほか、主郭とは堀切で区切られており、出城的な役割があったのかもしれない。また、かつては将軍家に献上するお茶を収めた茶壷蔵はこの大沢見張台とされていたが、発掘調査により、そのやや南の尾根の付け根の傾斜地から蔵跡を検出している。
 谷村町駅から線路沿いに南へ行くと踏切があり、そのまま道なりに進んでいくと路面に木が敷かれた城南橋で桂川を渡り、川棚の集落へと入って行く。道は細くなるが、そのまま道なりに進んで突き当りを右折すると城への登山口に着き、ここから10分程度登ると城跡である。登山道沿いには内堀、段郭の先端の川棚見張台があり、やがてあやめ平とも呼ばれる三ノ丸に入り、ここから先が主郭部となるが、訪れた時は登山道が一部崩落しており、二ノ丸への道と三ノ丸から焔硝蔵へ直接行く道が通れなくなっていた。行けなかった二ノ丸には、石垣が残っているらしい。頂上の本丸に入ると、左手に東照大権現が祀られ、その社が一段高くなっており、ここは櫓台だったという。本丸の北東側には段郭が連なり、その先の焔硝蔵へは段郭から下って行けたが、恐らく二ノ丸から行けると思われる大沢見張台へは、焔硝蔵からは木々が繁茂して道がよく分からなかった。遺構のよく残る城だっただけに、道の崩落という運の悪さが惜しまれる。