岩殿山城 所在地 山梨県大月市
JR大月駅北東1km国道139号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2012/10/13
岩殿山城南物見台 武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。
 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗の岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するなど栄えた。天台宗や真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいる為、古来の山岳信仰と習合して修験道となるのだが、岩殿山の険しさはその修行に最適であり、鎌倉時代には円通寺はその修行拠点となって更に栄えたという。
 岩殿山に城が築かれたのは戦国時代で、甲斐守護武田家の内訌を収めた信虎に臣従してその妹婿となった小山田越中守信有の時代である。小山田氏は、大月から富士吉田や山中湖付近までを支配した大名で、現在の都留市に本拠を持ち、大永7年(1527)に中津森館、その焼失後は天文元年(1532)から谷村城に居していた。岩殿山城はこの詰城として築かれたと考えられており、年代としては享禄年間(1528-32)から天文年間(1532-55)の初期頃と見られている。ただ、谷村城の詰城はその後背の勝山城であったという説があるほか、岩殿山城にも大月周辺の関所が武田氏の支配下にあったことから武田氏の持ち城だったという説があり、この辺りは両城に関連する新たな史料の発掘が待たれるところだろう。また、武田氏直轄説では、岩殿山城は武田氏の築城としている。
 小山田氏は、武田家中の親族衆として重きを成し、越中守信有から出羽守信有、弥三郎信有、信茂と3世代4代に渡って栄えたが、越中守や出羽守の頃は武田家が今川家や北条家と争った余波で郡内にも侵攻を許し、相応の被害があった。だが、城自体は戦場にはならなかったようだ。信虎の子晴信(信玄)の時代には、三国同盟によって郡内地方は安定したが、後に同盟が破棄されると、再び北条氏との領境となった。
 信玄の没後、武田家は信玄の四男勝頼が実質的に当主となり、信玄も落とせなかった高天神城を攻略するなどしたが、天正3年(1575)の長篠の合戦に敗れて以降は外交的失策も重なり、遂に同10年(1582)には木曾義昌の寝返りをきっかけに織田徳川連合軍の総攻撃を受けることとなる。この時、勝頼は築城途中の本拠新府城を放棄することにし、真田昌幸が進言した岩櫃城ではなく、信茂が進言した岩殿山城を目指したが、笹子峠で信茂の裏切りに遭って岩殿山城に入ることができず、天目山で自害した。
主郭部入口の揚城戸 一般に、岩殿山城を目指したのは小山田氏の居城だったからとされるが、前述のように岩殿山城を武田直轄と考えると、より堅固な岩殿山城に籠もるべく新府城を落ちたということになり、勝頼の最末期の印象がやや変わってくるが、実際はどうだったのだうか。ちなみに、岩殿山城と岩櫃城は、久能山城と共に武田三名城に数えられる堅城である。
 勝頼の自刃後、信茂は織田家に降ったが、勝頼を最後に裏切ったという不忠を咎められて自刃させられ、小山田氏も結局は滅んだ。この時、残された家臣や女子供がこの城に籠もったが、織田軍に追い立てられ、逃げる途中で足手まといになった子供を突き落とした場所が稚児落としと呼ばれる場所であるという。
 武田家滅亡後、甲斐国は織田家臣河尻秀隆の所領となったが、僅か3ヶ月後には本能寺の変が発生して秀隆は蜂起した国衆によって討たれてしまい、甲斐では北条氏と徳川氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が発生する。この乱での岩殿山城の事跡についてはよく分かっていないが、北条氏が谷村城を押さえたことから、恐らく乱の最初期は岩殿山城も北条氏が押さえていたのだろう。その後、北条氏と家康との間で和議が結ばれ、甲斐国が徳川領になると、岩殿山城はその峻険さから平時の行政拠点には向かない為、万一の詰城としての機能だけが残されたらしく、天正18年(1590)以降も甲斐に秀吉と近しい武将が封じられた為、関東に移った徳川氏との境目の城として維持されたようだ。だが、徳川幕府成立後は統治体制が安定し、17世紀初頭に廃城となった。
 城は、頂上の本丸から西に二ノ丸、三ノ丸と続く連郭式の山城だが、本丸と二ノ丸は大きくなく、三ノ丸やそのやや下の馬場、南物見台にかけてが割と広く削平されている。南物見台から下を覗けば、大月市街が真下に感じるほどの崖で、落ちれば軽く100mは滑落する、というより途中からスポンと空中に放り出されそうな感じだ。この景色だけで堅固さは一目瞭然だろう。特徴的なのは主郭部入口の揚城戸で、読んで字の如く城戸が上がるようになっていたと思われ、まさに岩の門である。また、岩山ながら頂上付近に水の手があるのも特徴で、籠城に一番大事な水と強烈な絶壁は、籠もる将兵からすれば非常に心強かったはずだ。ちなみに、標高は634mで、東京スカイツリーと同じらしい。
南物見台から見える断崖の岩肌と大月市街 岩殿山は名前の通り、下から見上げるとどこから登れるのか不思議に感じるほどの完全なる岩山で、登山道は非常に険しい。麓に近い岩殿山ふれあいの館で貰った地図には、ふれあいの館がある丸山公園から頂上まで40分とあり、自分の足では30分を切るぐらいの行程だったが、そのほとんどはつづら折の急な階段や坂道が続く。この登山道はハイキングコースにもなっているようで、すれ違う人も多かったのだが、あまりの急峻さに道端で休んでいる人を幾人も見かけた。それだけ厳しい登山道であり、汗をかく季節ならドリンクの携帯は必須である。