高杉晋作旧宅
所在地  山口県萩市
萩市役所西北800m
最終訪問日  2001/10/28
武家屋敷の一角にある生家 萩の武家屋敷に残る高杉晋作の誕生地。
 晋作は、天保10年(1839)8月20日に高杉小忠太春樹の嫡男としてこの家に生まれ、後に藩校明倫館や松下村塾で学び、久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の両巨頭と目されるようになるが、松下村塾の他の塾生が下士や足軽、農民の子だったりする中で、珍しく200石取りという堂々たる上士の階級にあった。
 その後、藩命で江戸の昌平坂学問所などでも学び、東北遊学での交流や上海での体験を通して大きな影響を受け、攘夷の為に文久3年(1863)6月には有名な奇兵隊を結成した。その頃の長州藩は、外国船砲撃や政変による七卿落ちなどで藩論を先鋭化させていたが、晋作は急進派を説得できず、自らは脱藩して京に潜伏し、翌年の帰国後は投獄、謹慎処分を受けた。やがて、報復してきた4ヶ国連合艦隊に長州藩の下関砲台は占領されるが、その和平交渉に起用されて藩政に返り咲き、長州征伐の際に台頭した俗論党に対しては功山寺に挙兵してこれを追い、藩論を統一した。
 これにより、長州藩は再び倒幕へと動き出し、薩長同盟を経て第二次長州征伐での海戦、小倉方面の戦いなどで晋作は活躍したが、その直後、肺結核を患って後方に退き、慶応3年(1867)4月14日に29歳で没した。
 城下町というのは普通、住居が城に近ければ近いほど身分が高くなるが、高杉晋作の旧居も城に近く、家格が高かった事を示しており、吉田松陰の生家である杉家が、現在の松陰神社よりも山側という、城からかなり遠い位置にあることを考えれば、高杉家の身分をおおよそ量ることができる。つまり、もし幕末の動乱がなくても、順当にいけば藩の中枢に参画することのできるという家柄であった。だが、「動けば雷鳴の如く 発すれば風雨の如く 衆目駭然 敢えて正視するなし」と伊藤博文に称されたあの行動力は、太平の世の中では鬱屈してしまいそうで、はやり幕末という激動期でなければ、高杉晋作は高杉晋作たり得ないうように思う。
 残っている旧居は、一般的な武家屋敷となんら変わらず、高杉晋作だからどうということはないが、晋作の句碑や、産湯として使った井戸などがある。また、周辺の武家屋敷には幕末の志士や、明治の元勲の生家があったりして、散策をしていると歴史を目の当たりにした気になる。