松陰神社
所在地  山口県萩市
萩市役所東2km
最終訪問日  2001/10/28
 言わずと知れた、幕末長州の巨魁、吉田松陰を祀った神社。
 吉田松陰は、文政13年(1830)神社の裏手にある杉家に次男として生まれ、やがて叔父の家である吉田家へ養子に入った。吉田家は、代々藩の山鹿流兵法の指南を務める家で、松陰も山鹿流兵法を修めるという名目で、若い頃に全国を行脚して陽明学者の葉山佐内らに学び、また、江戸に上った際には、佐久間象山などに学んで耳目を広げている。これらの藩外の人物との交流が、後の人生に重要な影響を与えた。
 その後、西洋に対する知識を深めた松陰は、自ら現地に赴いて学ぶことを切望するようになり、長崎でロシア軍船に乗り込もうとしたが失敗、翌年には2度目の来航を果たしたアメリカのペリー艦隊に留学を申し出るが断られている。
 この密航失敗の翌朝、自首した松陰は長州藩に送還され、1年2ヶ月の間、投獄されたが、出獄後に杉家へ戻って叔父玉木文之進の開いていた松下村塾を受け継ぎ、数多くの維新志士を輩出した。松陰が塾を主宰していたのは僅か2年ほどに過ぎないが、その短期間でこれほど多くの人物を育て上げたのは驚きで、松陰の人物を見抜く目と教化の力がどれほどのものであったかを如実に物語っている。
 だが、安政5年(1858)大老に井伊直弼が就任し、日米修好通商条約を締結すると、松陰はこれを非難して老中暗殺を計画した為、長州藩は松陰を投獄し、更に、強権政治で反対する人物を粛清していた直弼は翌年、長州藩に松陰を送致するよう命じ、江戸伝馬町の獄で斬首刑に処した。いわゆる安政の大獄で、松陰は享年29という若さであった。
 松陰神社は、松陰の弟子らが長州藩を主導し、維新の回天が成った後の明治15年11月21日、松陰の御霊を祀る為、弟子らによってその墓のすぐ横に創建され、近年はその教育者や思想家としての才能から、学問の神様としての信仰もあるという。境内には松陰に関する資料館や遺墨展示館があり、松下村塾も移築されているが、観光コースに組み入れられている為か、ゆっくりと落ち着いて見学とはいかないところがやや惜しい。