功山寺
所在地  山口県下関市
JR長府駅西南3km
最終訪問日  2002/12/7
国宝の大仏殿右手奥にある毛利家墓所 功山寺は、正式には金山功山寺といい、千手観音菩薩を本尊とする。鎌倉末期の嘉歴2年(1327)虚庵玄寂によって創建され、最初は長福寺といい、開山当時は臨済宗であった。
 創建以降、後醍醐天皇や足利尊氏・直冬兄弟など、時の権力者から保護を受け、長門守護の厚東氏を滅ぼして中国地方で勢力を拡大した大内氏にも保護されている。
 その大内氏は、義隆の代に陶晴賢の謀叛によって嫡流が絶え、晴賢によって擁立された大内義長も、厳島の合戦で毛利元就に晴賢が敗れたことによってその攻撃を受けた。義長は、実家の九州大友氏を頼ろうとしたが、馬関海峡を封鎖されて渡ることができず、弘治3年(1557)には且山城に籠って戦った。しかし、戦いに利なく、元就の策略によって開城後にこの寺に軟禁され、その翌日に自刃させられた。大内氏は、皮肉にも自らが保護した寺で終焉を迎えたのである。この時に義長が自刃したのは現在国宝となっている大仏殿と推定され、今でもその裏手には義長主従のものと見られる墓が残っている。
功山寺挙兵を表した高杉晋作の像 大内氏が滅んだ後、寺はしばらく荒廃していたが、関ヶ原の合戦後に入部した長府5万石の祖毛利秀元は、慶長7年(1602)に父元清の霊を祀って再興し、笑山寺と名付けてこの時に宗旨も曹洞宗へと変えた。そして、この元秀没後、その号をとって慶安3年(1650)に功山寺と改名し、以降長府毛利家の菩提寺となった。
 幕末には、禁門の政変で失脚し、俗に七卿落ちと呼ばれる都落ちをした三条実美ら五卿がこの寺に匿われた。そして、高杉晋作がその五卿に拝謁して俗論党打倒の兵を挙げたという、功山寺挙兵の舞台ともなった。
 長い階段を登って巨大な楼門をくぐると、まず正面に元応2年(1320)建立の国宝の大仏殿が目に入る。その脇には大内義長の墓や、長府毛利家の墓所があり、左手には隣接して長府博物館がある。境内には功山寺で挙兵した高杉晋作の像もあり、創建当時から現在に至るまでの歴史が凝縮されているようである。