桂小五郎旧宅
所在地  山口県萩市
萩市役所西北600m
最終訪問日  2001/10/28
旧宅の碑と門 後に木戸孝允と名乗った桂小五郎の旧宅。
 幕末史では木戸孝允よりも桂小五郎のほうが著名だが、実家は藩医であった和田家で、天保4年(1833)6月26日に昌景の子として生まれ、近くに住む桂九郎兵衛という人物の養子になった。桂家は毛利家の草創の重臣である桂氏の庶流であり、150石取りの堂々たる武士で、昌景はたいへん喜んだらしい。
 成長した小五郎は藩校明倫館に入り、20歳の嘉永5年(1852)に江戸へ留学するまでこの旧宅に住んだという。その後の小五郎は、神道無念流の斉藤弥九郎道場で塾頭を務め、黒船来航を機に志士としての活動を開始し、萩に帰ってからは藩の中枢を担った。京での活動時には、池田屋事件や蛤御門の変で生命の危機に立たされながらも命は保ち、蛤御門の変後は京や但馬出石で潜伏生活を続け、長州藩で俗論党の反政府が高杉晋作らによって覆されると藩政府へ復帰した。そして、坂本竜馬の仲介で薩摩との同盟を果たして第二次長州征伐、戊辰戦争に勝利し、藩を主導して倒幕、新政府樹立へ邁進した。ちなみに、この頃から名乗りを木戸に改めている。
 明治政府樹立後もその政治的見識が評価され、岩倉使節団のひとりとして欧米を視察し、帰国後は調和的で現実的な様々な政策を推し進めたが、その調和的な思考が、急進派と守旧派のような相対する勢力の板挟みになり、心身を害して新政府と距離を置くこともあった。そして、明治10年5月26日、西南戦争の行方を案じつつ、この世を去った。
 志士タイプが多い幕末の長州の中では、ほぼ唯一に近い政治家タイプで、個人的には、「動けば雷鳴の如く発すれば風雨の如く」と評された高杉晋作や、蛤御門で壮絶な死を遂げた久坂玄端のような激しいイメージは薄いが、その分、着実に実績を積み上げていったように思う。その性向が、長州志士の政策主導者として迎えられ続けた理由だろうか。ただ、維新の三傑と呼ばれるように、まさに薩摩の大久保、西郷と伍する政治家であったのだが、維新後すぐ病に倒れてしまい、明治政府草創期において影が薄くなってしまっているのは惜しまれる。
 現在残っている旧宅は、観光地として良い雰囲気となっている武家屋敷の町並みの一角にあり、当時の藩医の住宅がどのようであったかを知ることができる。また、その立地は、出世すれば藩の中枢を成すことも可能な上士の区域で、もし泰平の世に生まれても、その能力で藩の中核を担ったのは間違いないだろう。