萩城 所在地 山口県萩市
JR玉江駅北1.2km指月公園周辺
区分 平山城・海城
最終訪問日 2001/10/28
天守台と解体前の写真 萩城の前身は指月山にあった指月城で、これは吉見氏が築いたものである。吉見氏は、中国地方から九州にかけての広大な領土を誇った有力守護大名大内氏の配下として、古くから阿武郡を領していた。だが、連続して統治し続けた訳ではなく、大内教幸の叛乱に加担した時に阿武郡を取り上げられ、吉見正頼が毛利元就に臣従した後に改めて阿武郡を与えられている。つまり、指月城の築城は、この室町時代の統治時か戦国時代の統治時ということになるが、当時は城としての価値も低かったようで、具体的にいつ築城したのかはよく判らなかった。しかしながら、正頼が晩年の隠居城として居住していたのだけは確かである。
 時は下って慶長5年(1600)、吉見氏の主家であった毛利氏は、関ヶ原の合戦本戦で戦闘には参加しなかったものの西軍の名目上の総大将として担ぎ出された為、このことを家康に問われて防長二州に押し込められた。一説には、家康自身は取り潰す予定であったが、戦前から家康に内通していた吉川広家が自らの功で受ける予定だった封土を本家の領地にしてほしいと懇願した為であるという。
 本拠であった安芸を奪われた毛利家は、広島城に代わる本拠を築かねばならなかったが、その候補として幕府に提出した山口高嶺城、防府桑山城、萩指月城の内、山陽筋は幕府の懸念から許可されず、最も僻地であった萩に築城することとなった。こうして、海に突き出した指月山を中心にして東南麓に慶長9年(1604)に着工し、同13年(1608)に完成したのが萩城である。
 その後、本拠としては、幕末の文久3年(1863)に藩庁が交通の便の良い山口へ移されるまで機能し、翌元治元年(1864)の長州征伐での恭順条件として山口の政庁の破却と藩主毛利敬親の萩への退去が決められたことにより、一旦この城へ本拠が戻されたが、高杉晋作の蜂起によって俗論党が力を失うと翌慶応元年(1865)に再び山口へ本拠が移され、以後は首城として機能することはなかった。そして、明治6年の廃城令で廃されることが決定し、明治7年に天守閣や櫓などが解体され、その使命を終えている。
 城の構造は、阿武川河口の三角州に展開する典型的な近世城で、指月山麓を開削して城郭と城下町を隔てる外堀とし、そこから三ノ丸、中堀、二ノ丸、内堀を経て、指月山東南麓に本丸と白亜の五層天守を構えていた。天守は桃山初期の形式で、高さは14.4mあり、初層が石垣からはみ出す張出と呼ばれる構造によって、石垣を登る敵を射撃できるようになっている。更に、戦時の備えとして指月山上に本丸と二ノ丸で構成される詰ノ丸を設けていたが、これは恐らく吉見氏時代の指月城を改修したものと思われ、山上を含めた全体としては平山城の形式に入るだろうか。また、城下町には新堀川と藍場川を開削し、城下町を含めた防御力の向上と生活の利便性を図っていた。
指月山上の詰ノ丸 現在、城跡の一部は指月公園となり、石垣や堀などが当時の姿を留めている。今は無き天守の姿は、明治時代初期に撮られた写真が案内板に載っているので確認できるが、江戸時代初期のやや武張った印象を若干残しつつも全体としてはとても優美な姿をしており、取り壊されてしまったのが非常に惜しい。
 萩の観光としては城よりも城下町が有名で、江戸時代の武家町の姿を残している所が多く、独特の趣がある。また、明治維新の中心となった長州藩志士に関する観光名所も多いので、幕末好きの人にとってはたまらない町だろう。