壇ノ浦古戦場
所在地  山口県下関市
関門海峡近辺
最終訪問日  2002/12/7
壇ノ浦古戦場址碑 元暦2年(1185)3月24日に行われた、源平の戦いでの最終決戦地。
 平清盛が全盛を築いた平氏は、その晩年に陰りが見え始め、治承4年(1180)の以仁王の叛乱を契機に全国で平氏追討の狼煙があがった。また、平氏にとって運の悪いことに、翌5年(1181)には大黒柱であった清盛が病没し、いよいよ家運の傾きが色濃くなってくる。こうした情勢の中、寿永2年(1183)には成す術なく源義仲に京を追われ、義仲と頼朝の対立の隙を衝いて一度は神戸福原を回復したものの、翌3年(1184)の一ノ谷の戦い、その次に本拠とした屋島での戦いにも敗れてしまう。こうして拠点を次々と失った平氏本隊は、厳島を経由して長門国彦島に拠る平知盛の軍と合流し、立て直しを図った。これに対して源氏は、源範頼を豊後国に置いて平氏の退路を塞ぐ一方、源義経は伊予の河野通信や熊野別当湛増らの水軍を組織して800艘余りへと船団を増強し、3月24日に両軍は赤間関壇ノ浦海上で衝突した。
 合戦は早朝から始まり、最初は潮流の有利さや海戦の経験の差もあって500艘余りという寡兵の平氏が押していたものの、潮の流れが変わった後半は源氏方が優勢となり、平氏の敗北が決定的となってからは清盛の妻である二位ノ尼や孫の安徳天皇、一族の平知盛や教盛といった有力武将が入水し、合戦は源氏の完全なる勝利に帰した。ただし、潮の流れに関しては異説があり、実際の戦況とは関係なかったともいわれている。また、平家物語では、平家一門随一の猛将であった教経が義経と戦おうとしたものの、八艘飛びによって戦うことができず、壮絶に入水したと描かれており、ここが最も盛り上がる場面であるのだが、吾妻鏡では、教経は一ノ谷の合戦で討死したとあり、その他の資料でも生死の詳細が不明らしい。どうも、この場面は史実よりも物語性が強く出た場面のようだ。
 関門海峡は、下関から見ると九州が川の対岸のように近くにあるが故か、戦略上の重要地点となることが多く、この壇ノ浦の戦いのみならず、近世まで幾多の戦いの戦場となり、その数だけ興亡があった。だが、その幾多の興亡を見てきたであろう潮の流れは、長い時を経ても変わっておらず、現在は国道9号線の海際の細いスペースに壇ノ浦古戦場碑と関門橋完成記念碑が並んで建っており、かつての戦いが嘘のように長閑だった。