鶴ヶ岡城 所在地 山形県鶴岡市
鶴岡市役所西500m
区分 平城
最終訪問日 2001/9/18
江戸時代の城周辺の縄張 鶴岡はもともと大宝寺といい、城も大宝寺城と呼ばれていた。城は、鎌倉末期から南北朝初期の頃に入部した武藤長盛による築城が最初とされ、当時は居館形式だったと思われる。
 この地を領した武藤氏は大宝寺という名でも知られ、一般には藤原秀郷流、また一説に藤原道長の裔という。源平の争乱では、頼平・資頼父子がその姻戚関係から最初は平家方であったが、後に源氏方へ転じて功を挙げ、さらに奥州征伐にも従ってこの大泉荘の地頭職を得た。資頼は後に九州へ赴いて少弐氏の祖となるが、この大泉荘の地頭職は弟の氏平が継ぎ、氏平は大泉と称したようだ。そして、その裔と思われる上記の長盛の頃に下向して大宝寺と称するようになったという。
 南北朝時代から室町時代にかけては、大泉荘の地頭職は越後守護の上杉氏であったが、大宝寺氏は上杉配下の在地代官として勢力を培ったようで、寛正3年(1462)の10代淳氏の時に出羽守に、その孫政氏の時に羽黒山別当職となっている。これらの権威を利用しつつ勢力を拡大し、室町時代から戦国時代にかけてはかなりの勢力を蓄えた大宝寺氏だが、16世紀に入る頃になると、砂越城の砂越氏が台頭して激しく対立するようになった。この対立は、政氏からその子澄氏にかけての時代と思われるが、永正10年(1513)の田川での戦いに勝利して、大宝寺氏はようやく砂越氏雄を滅ぼすことに成功し、同15年(1518)には一族と思われる氏維を砂越城に据えている。しかし、この氏維が独立を志した為、天文元年(1532)には本拠大宝寺城が破壊されてしまい、澄氏の子晴時はより堅固な尾浦城へ本拠を移さざるを得なくなった。ただ、一説には、この本拠移転は赤川の流れが変わって城が破壊された為ともいう。いずれにせよ、以降の大宝寺城は尾浦城の支城となったのは間違いなく、城番が置かれていたようだ。
 庄内は越後と関わりが深く、戦国時代に上杉謙信の勢力が拡大してくると、晴時から家督を継いだ従兄弟の義増はその支配下に入ったが、本庄繁長の謀反に加担してすぐ降伏したこともあり、戦国時代の国人らしい行動を見せている。そして、子の義氏の時代には、上杉氏の支援を受けつつ盛んに最上領や由利地方へ侵入を試み、一時は最上氏に匹敵する勢力を示した。また、中央との繋がりも求め、信長から屋形の号を受けてもいる。しかし、内向きの政策は疎かにされたようで、続く外征に領民からは悪屋形と呼ばれ、強引に国人領主を家臣団化してその支持を失い、天正11年(1583)には最上氏と通じた側近前森氏永に城を急襲されて自害に追い込まれた。
 義氏の死後、弟義興が家を継いだが、領国は安定せず、東禅寺城に入って東禅寺を称した氏永と当然ながら対立があり、天正14年(1586)頃からは氏永を支援する最上義光の介入を招いて、翌年には自害に追い込まれてしまう。だが、同16年(1588)に義興の養子義勝が実父本庄繁長と共に庄内奪回を図って侵攻し、最上軍との十五原合戦を経て、再び庄内は大宝寺領となった。また、この頃、城に若干の改修が施されたというが、義勝も尾浦城を本拠としたことから、大規模な改修ではなかったようだ。
 天正18年(1590)に秀吉によって天下統一が成されると、地侍などの中間支配層は検地を通じて大名の家臣か帰農かという選択を迫られたが、これに反する国人一揆が全国で頻発した。この庄内でも同年に叛乱が発生し、大宝寺城は城番芋川正親が応戦するも落城してしまい、上杉家重臣直江兼続が叛乱を鎮圧した後、兼続によって城が修築されている。また、義勝は一揆扇動の咎を負わされ、翌年に大和へ流罪になり、上杉家の直轄となった大宝寺城には上杉家臣が在番した。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際は、上杉軍の攻撃を凌いだ最上軍が東軍勝利の報を得て逆に庄内へ侵攻、翌年にはこの城を攻略し、戦後処理で正式に最上領となる。義光はこの城を隠居城として改修し、酒田に打ち上げられた亀を吉兆として東禅寺城を亀ヶ崎城としたのに因んで鶴ヶ岡城と改名した。だが、義光自身が居住することはなかったようで、藤島城主新関久正が城代を兼ね、一栗高春が城番を務めたという。
 しかし、最上家を大大名にまで育てた義光の没後は最上家中が乱れ、鶴ヶ岡でも慶長19年(1614)に城内で高春が志村光清や下吉忠を謀殺する事件が起きている。そして、ついには元和8年(1622)にお家騒動から改易されてしまった。その後、幕府は、外様大名の多い東北の抑えとして譜代を起用し、徳川四天王に数えられた酒井忠次の孫、忠勝をこの地に封じているが、この人選は、庄内がどれだけ重要視されていたかということの証左になるだろう。事実、幕末には奥州列藩同盟の指導的役割を果たし、譜代大名の責を果たしたことは有名である。忠勝は、鶴岡への入部後、この重責に応えるべく城郭と城下町を整備したのだが、子孫が幕末に果たした譜代としての役割は、そのまま幕府を倒した新政府の反感となるのは当然で、鶴岡藩自体は久保田藩や新庄藩を相手に連戦連勝して城は無傷だったものの、維新後の明治9年に城は徹底的に破却されてしまったようだ。
 城の構造は、方形に近い本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が水掘を隔てて囲うように造られ、本丸には北西と東南に二層の隅櫓があった。全体としては惣構の構造で、周辺を流れる青龍寺川や内川をうまく堀として取り込んだ典型的な近世城郭であるが、東国らしく土塁を基本としており、天守閣もない控えめな造りと言えるだろうか。
 現在、外堀と三ノ丸は市街化しているものの、本丸と二ノ丸、内堀と中掘は健在で、櫓台をはじめとして、残っている土塁などの遺構が当時の姿を偲ばせてくれる。敷地内には酒井氏の歴代当主を祀る神社や移築された西洋建築物の大宝館などがあり、訪れた時は天候が芳しくないにもかかわらず散歩している人が多く、市民の良い憩いの場になっているようだ。また、城下に到道館という江戸時代の藩校が残っており、こちらも史跡に指定されているが、朱子学という大義名分論とも言うべき学問が奨励された時代において、荻生徂徠の現実的な学問を取り入れた珍しい藩校であった。江戸時代の支配者層の学校としては、特筆すべき事かと個人的には思う。