和歌山城 所在地 和歌山県和歌山市
和歌山県庁北東200m
区分 平山城
最終訪問日 2003/4/26
岡山口の櫓門と天守遠景 日本三大連立式平山城に数えられるほどの、代表的な近世平山城。
 戦国時代の紀伊は、雑賀衆などの地縁的集団や根来寺などが割拠し、統一的な戦国大名の出現がないまま、中央を制した秀吉に征伐された。
 征伐後の天正13年(1585)、秀吉は弟秀長にこの地を与え、城地を自ら選んで縄張りし、藤堂高虎を普請奉行として本丸と二ノ丸を築城させた。翌14年(1586)、大和郡山を本拠としていた秀長は、家臣であった桑山重晴を城代として封じ、関ヶ原の合戦までの14年間、重晴とその孫の一晴が本丸部分を中心に整備を進めた。
 関ヶ原の合戦後、慶長5年(1600)に豊臣恩顧の大名であった浅野幸長が37万石余で入部したが、弟長晟が藩主であった元和5年(1619)に福島正則改易後の広島へ移封となり、代わって家康の十男頼宣が55万5千石で入部、徳川御三家のひとつとしての和歌山藩が成立した。
 現在の城の基礎部分は、豊臣政権期のものを中心として江戸初期に浅野氏が修築したもので、この時には大手門の変更や二ノ丸の整備が行われている。浅野氏が広島に転封した後、徳川頼宣入部に伴って御三家の居城に相応しいように、また、南海道と西国に対する拠点としての役割を担うよう、大規模に拡張されて現在の姿となった。
 中心は標高48.9mの虎伏山で、西に大天守と小天守、櫓2棟などを多聞で連結した天守郭があり、弘化3年(1846)に落雷で焼失したが、4年後には復興された。これらは戦前には国宝に指定されていたが、残念ながら昭和20年の空襲で焼失し、今の天守は昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものである。
楠門から多聞と天守閣 天守郭の東には、浅野時代に二ノ丸と呼ばれていた本丸御殿があり、この2つの郭が防衛機能の核となる。その間は巨大な堀切のようになっており、他の城にも見られるように、戦時にはどちらかが陥落しても防御能力を保てるしくみになっていたと思われる。この堀切のような場所から北に下りたところが本丸で、更にその北に二ノ丸があり、ここに政庁機能や藩主の居館があった。二ノ丸の西には内堀を介して西ノ丸と砂ノ丸があり、内堀の内側には時計回りに松ノ丸、南ノ丸があって、この南ノ丸からは、浅野氏時代の大手門で後に搦手となった岡口門が繋がっている。この岡口門の櫓門は、和歌山城に残る数少ない建物で、土塀と共に重要文化財に指定されている貴重なものだ。
 明治4年の廃藩置県で廃城となり、明治34年に和歌山公園として一般市民に公開され、前述の天守閣を始め、現在は西ノ丸の庭園も復元されている。公園は、都市の中心部にありながら巨大な城域が城跡としてほとんど残されており、一部の堀は埋め立てられて郭は運動公園などになってはいるが、徳川御三家の威容を今に十分伝えている。