田辺城 所在地 和歌山県田辺市
田辺市役所西400m会津川河口
区分 平城・水城
最終訪問日 2003/4/27
唯一残る埋門の石垣 紀伊田辺城や錦水城とも呼ばれ、その名から分かるように川と海に面した水城。
 関ヶ原の合戦後、慶長5年(1600)に浅野幸長が和歌山城に入部し、田辺には浅野氏重を配した。
 氏重は、左衛門佐という官職で呼ばれることが多く、氏定や知近、良重という名前もある浅野家の重臣で、田辺では慶長11年(1606)に対岸の洲崎城から会津川河口に新たに築城して移り、同時に城下町の整備を行った。この頃、城は湊城と呼ばれ、後の一国一城令で城は廃されたものの、現在の田辺市街はこの時の城下町を下敷きとして発展することになる。
 元和5年(1619)、福島正則が安芸を没収されたことによって和歌山の浅野氏が広島に移り、代わって徳川頼宣が和歌山に入部した。この時、田辺には付家老であった安藤直次が3万8千石余で封じられ、廃城となっていた湊城を修築すると共に拡張し、現在の田辺城を築いた。だが、安藤氏は付家老である為に、そのほとんどを和歌山城で過ごし、城は家臣の安藤小兵衛が代々城代を務めて預かったという。また、維新後に紀伊田辺として正式に立藩したが、すぐに廃藩置県となり、明治3年に廃城となった。
 城自体は、公的には館と称していたほどのもので、規模は大きくない。会津川を天然の堀とし、南を海に守られた平城で、北と東にも堀を穿ってはいるが、居館形式で政庁機能を重視した城の為、防御力はほとんどなかったと思われる。
 現在唯一の遺構として、船で直接城に入れるように会津川と繋がっていた埋門が残っており、錦水城の名の通り、白壁が川面に反射して美しかったであろう往時を偲ぶことができる。