安田城 所在地 富山県富山市
JR婦中鵜坂駅西760m県道62号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2017/5/21
安田城址碑と安田城右郭 安田城は、天正13年(1585)の秀吉による佐々成政討伐の際に築かれたと推測されている。ただし、築城年代については異説もあり、更に年代が遡る可能性もあるようだ。今後の史料発掘が待たれる。
 天正13年(1585)の情勢としては、前年の11月に小牧長久手の戦いが終わり、6月に四国に派兵して長宗我部元親を降したことで、西や東海筋の情勢が安定し、秀吉には飛騨や北陸に兵を向ける余裕ができていた。対する成政は、飛騨の姉小路頼綱(自綱)と共同戦線を張り、抵抗する構えを見せたのである。こうして、7月に成政討伐の軍令が下された。
 成政討伐戦の緒戦は、秀吉軍の先陣である前田勢との小競り合いであったが、秀吉の陣容が揃ってくると、成政は越中国内の兵を富山城に集結させて籠城策を採るようになる。籠城は、兵の多寡を考えれば常道だが、これによって秀吉は長期戦を予測したようで、その本陣を白鳥城、その前面の両翼として安田城と大峪城を整備し、安田城には前田家臣岡島一吉が入った。だが、成政は兵力の差を考えて勝ち目が無いことを悟り、秀吉が白鳥城に入城する前に降伏している。
安田城鳥瞰図 戦後、越中の大部分は前田利家の子利長に与えられたが、新川郡が佐々領として残った為、白鳥城と安田城、大峪城はそのまま活用され、安田城は一吉がそのまま城代となった。天正15年(1587)に成政が肥後へ転封した後は、越中一国が前田領となったことから、安田城は一旦は城としての役目を終えたようだが、利長が慶長2年(1597)に富山城へ入城すると、その支城として白鳥城に一吉と片山延高が入り、不便さからか安田城に居住したという。同4年に利家が没すると、利長は家督を継いで金沢へ移り、一吉もそれに従った為、平野三郎左衛門が在番したものの、程なく廃城になったようだ。
 城は、井田川の西岸に構えられた平城で、井田川の水を引き込んで幅広の水堀で区画し、方形の本丸から不整形の長方形である二ノ丸が南に続き、長方形から一部を欠いたような右郭が本丸の南西、二ノ丸の西側にある。同時期に整備された大峪城が方形で軸が揃っているのに対し、安田城は本丸に対して二ノ丸と右郭の軸がずれており、地形の制約を受けない平城としては変わった構造と言えるだろう。この軸のずれを前身の城砦の再利用と考え、本丸を付け足した形とする見方や、二ノ丸と右郭を付け足したとする説もあり、前述の築城年代の異説に繋がっている。
二ノ丸から本丸を望む 安田城は、昭和56年に国の史跡に指定され、現在は総芝生敷きとなっており、散策し易く、且つ、構造がとても解り易い。現地では、写真を撮る人や家族連れもいて、城に興味が無い人でものんびり過ごせる場所であるようだ。個人的には、幅広の土塁が四周している本丸が目を引いた。この部分は近世城の趣が強く、本丸の北東隅に櫓があったのは想定されているが、他にも土塁上に建物があったのかもしれない。その土塁上に立つと、二ノ丸や右郭が見渡せ、清々しい気分で過ごせた。何も無いのが史跡らしくて、良い城である。