富山城 所在地 富山県富山市
富山県庁南すぐ
区分 平城
最終訪問日 2017/5/20
富山城模擬天守と内堀 天文12年(1543)に神保家臣であった水越勝重の築城という。この勝重には、現在は有力な説ではないが、神保家を再興した長職と同一人物という異説もある。また、城自体はそれ以前から存在していたともいう。
 室町時代の越中は、守護畠山氏の下で神保氏と椎名氏が守護代に就いていたが、戦国期に入ると、神保慶宗は畠山氏からの独立を志向して一向宗と手を結び、やがて畠山氏とその援護要請を受けた長尾氏の討伐を受けて没落した。だが、慶宗の子長職は、天文年間(1532-55)までに家の再興を成し遂げ、戦国時代に越中を彩る中心人物のひとりとなるのである。
 室町時代は、神保氏と椎名氏の領境はこの富山城の西の神通川であった。この富山城の築城は前述の通り天文年間中頃だが、富山城が神通川の東に位置することから、これは、長尾氏に従って越中の又守護代となっていた椎名氏の支配する、新川郡への侵攻の確たる証でもある。御家再興を成し遂げた当時の長職の勢いというのが窺われるだろう。
 以降、長職はこの富山城に居城を移して新川郡攻略を繰り返したが、長尾氏の家中が後の上杉謙信である景虎の当主就任によって安定化すると、それを後ろ盾とする椎名氏は、勢力を盛り返してくるようになる。そこで長職は、永禄3年(1560)に武田信玄や一向宗と結んで椎名氏の居城松倉城に攻め寄せ、椎名氏を滅ぼす勢いを見せたのが、景虎自ら後詰として出陣して来ると、これに敗れてしまい、富山城どころか一旦は越中からも追われることとなった。
 その後、富山城は椎名氏が支配したと思われるが、永禄11年(1568)には、今度は椎名康胤が信玄や一向一揆と結んで謙信に叛旗を翻した為、謙信は度々越中に侵攻して元亀2年(1571)に富山城を抜いている。だが、上杉勢が越後に帰ると一向一揆が再び蠢動し、翌年には城を奪い返された為、謙信自ら幾度目かの越中侵攻を行い、富山城を攻撃した後、尻垂坂で一向一揆に大勝を収め、富山城を奪回した。この時、信玄によって信濃を追われていた小笠原長時の子長隆と、上杉信定が城代として置かれている。しかし、動乱は尚も続き、翌4年(1573)には信玄の西上に呼応した一向一揆と共に康胤が再起して城を奪取したが、これを聞いた謙信が、すぐさま包囲して陥落させると、信玄の病死もあってようやく情勢はしばし安定した。とは言え、一向一揆の影響は根深く、天正4年(1576)にも一向一揆方であった富山城を上杉軍が落としたことが見える。
大手桝形の巨大な鏡石 一方、富山城から追われた神保長職は、しばらく後に謙信に臣従したことによって本拠増山城を中心に勢力を辛うじて残していたが、家中は親上杉派と反上杉派に分裂していた。そして、長職の没後は親上杉派の家老小島職鎮が実権を握った為、長職の子長住は上洛して信長に仕え、越中帰還の機会を窺うこととなる。その後、天正6年(1578)に謙信が没すると、越中や能登の上杉系勢力が動揺した為、それに乗じて織田家の北陸方面軍である柴田勝家らが一向宗を破って越中にも迫り、長住も信長から援兵を得て飛騨経由で侵攻した。そして、増山城を攻略して足場を固め、やがて富山城も抜き、神保家の実権奪回に成功するのである。しかし、天正10年(1582)には、職鎮や唐人親広らが上杉軍に呼応して富山城を奪い返し、長住は幽閉されてしまう。この後、城自体は織田軍によって奪回されたものの、富山城の維持に失敗した長住は追放されてしまい、神保家は没落してしまった。
 長住追放後、富山城に入ったのは佐々成政である。成政の入城は、職鎮の叛乱を考えると天正10年(1582)だが、城のパンフレットにはその前年とあり、この年の入城という説もあるようだ。いずれにせよ、成政は富山城の改修に取り掛かり、城の北を流れて天然の堀となっていた、今は一部が松川として残る旧神通川だけでなく、東のいたち川まで城を拡張してその水で堀を整え、城下町も整備した。また、この時に五層の天守が建てられたという。
 信長が天正10年(1582)の本能寺の変で倒れた後の成政は、与力となっていた柴田勝家に与したが、翌年の賤ヶ岳の合戦には上杉勢の牽制で参陣できず、勝家が滅ぼされた後も秀吉とは対立を続けた。その一方で、越中から上杉勢を追い、越中平定を成し遂げている。その後、同12年(1584)の小牧長久手の合戦と同時期に行われた末森城の攻防では、秀吉の臣下となった前田利家の奇襲に苦杯を舐め、秀吉と和睦した家康に対しては、富山城から冬の立山を越えて浜松にまで赴いたが、説得には至らなかった。ちなみに、この強行軍はさらさら越えと呼ばれ、伝説的な怪異譚も伝わる。このように、大局的な形勢が秀吉有利に傾く中、同13年(1585)には大規模な越中平定の軍が起こされ、秀吉に対抗し続けた成政も、ついに秀吉の軍門に降ったのであった。
大手桝形付近の石垣には往時の野面積 この越中平定後、成政に許された越中新川郡以外は、利家の子利長の領地となり、富山城は城代横山長知が統治したが、慶長2年(1597)には利長の本拠城となっている。利長は、在城2年で父利家が死去した為、本城金沢城へと移り、江戸時代に入った慶長10年(1605)に隠居して再び富山城へと戻るのだが、この時も在城期間は短く、4年後に火災で焼失した為、新たに高岡城を築いて移った。その後、富山城は津田正勝(義忠)が城代となるが、その死後は城蕃が置かれるだけで朽ちるままとなっていたようだ。
 火災から30年経った寛永16年(1639)、3代藩主利常の次男利次に越中の一部が分知されて富山藩10万石が成立し、万治4年(1661)から城を修復してその本拠とした。富山藩はこのまま明治維新まで続いたが、城の建物は度重なる火災で焼失し、維新後の明治3年頃から練兵場などに城地が造り替えられたという。明治6年の廃城令で正式に廃城となった後は、城跡は払い下げの対象となり、明治18年に富山県庁の敷地として使用され、県庁移転後は城址公園として整備されて今に至っている。
 現在は本丸、西ノ丸跡が城址公園となり、三層四階の天守兼歴史博物館が昭和29年に建てられ、堀は本丸の南側のみ辛うじて残っているが、敷地面積としては全体の6分の1程度という。往時は本丸の南に二ノ丸があり、本丸と西ノ丸、二ノ丸を囲うように南に三ノ丸が設けられ、北東端には東出丸と千歳御殿という郭もあった。
 現在の模擬天守は望楼形式で、それなりに城址としての趣はあるのだが、やはりもう少し遺構が残っていたならば貫禄も増していたはずで、周囲が市街地化してしまった城ならではの寂しさも少し感じる。ただ、22年前に来た時よりかなり綺麗に整備し直されており、都市の史跡公園として大切にされているというのは感じた。