白鳥城 所在地 富山県富山市
JR西富山駅西1.2km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/20
白鳥城址碑 富山市街の西にある呉羽丘陵に築かれた城。
 白鳥城の築城年代は不詳だが、弥生時代の集落の跡が見付かっており、当時から平地に対する軍事的優位を得られる拠点として使われていたようだ。有史時代では、木曾義仲の四天王に数えられる今井兼平が越後から進出し、寿永2年(1183)5月の般若野の合戦の前夜に呉羽山に陣を敷いたのが初出である。
 城として機能するのは戦国時代で、越中西部の守護代であった神保長職が天文12年(1543)に富山城を築いて新川郡に進出するのだが、この長職によって城として整備された。背景として、長職の新川郡への進出による越中東部の守護代椎名氏との対立があり、その後ろ盾であった長尾景虎(上杉謙信)の侵攻に備えて本格的に築城されたとされることから、平城の富山城の詰として考えられていたのだろう。ただ、長職が富山城周辺へ西から進出してきた事を考えると、前衛拠点化可能な目ぼしい山というのは呉羽丘陵しか無く、その頃には既に城砦として活用していたとしてもおかしくはない。
 長職は、新川郡に進出したことによって越中最大の勢力となり、永禄年間(1558-70)初頭には再び椎名氏と激しく対立するようになった。そして、同3年(1560)に椎名氏の居城松倉城へ、一向一揆と連合して攻め寄せたのである。だが、この事態を受け、椎名氏の後ろ盾である景虎は越中に出兵し、瞬く間に連合軍を破って富山城を抜き、長職が逃げ込んだ増山城も陥落させた。これにより、白鳥城も上杉氏が領有したと思われる。
 長職は、その後も同5年(1562)に上杉軍に1度敗れた後、神通川での合戦で上杉・椎名連合軍を破って松倉城へ攻め寄せているが、上杉軍の後詰によって後退を余儀無くされ、増山城に籠もったものの降伏に追い込まれた。この流れの中で、白鳥城も富山城と同様に争奪の的となり、領有も変遷したのだろう。
 その後、同11年(1568)には、今度は上杉氏に従属していた椎名氏が武田氏に通じて叛乱しており、同年と翌年、更に元亀2年(1571)に謙信は自ら越中に侵攻している。しかし、椎名氏を滅ぼすまでには至らず、富山城などを巡って激しい争奪戦が繰り広げられる事になるのだが、富山城に近い白鳥城も同様に争奪されたのではないだろうか。ただ、史料には城はあまり登場せず、元亀3年(1572)に椎名氏と組む一向一揆によって落城したことが見える程度という。
白鳥城縄張図 謙信は、その後も断続的に越中に出兵を続け、天正4年(1576)には一向一揆と和睦して椎名氏を滅ぼし、越中統一を果たした。しかし、同6年(1578)に謙信が没すると、上杉家中で御館の乱という家督争いが発生し、これに機として織田家が越中に進出するようになる。上杉軍は、重臣河田長親の善戦によってなんとか侵攻に抗っていたが、長親が急死すると劣勢になり、天正10年(1582)3月に富山城が陥落した。白鳥城もこの前後に落城したと思われる。
 その後、織田軍は魚津城まで進出するが、魚津城落城前日の6月2日に本能寺の変が発生し、織田軍は撤退した。ただ、富山城主となっていた織田家臣佐々成政が踏ん張っており、白鳥城もそのまま成政の属城として機能したはずである。
 成政はその後、寄親であった柴田勝家に従って秀吉に対抗し、勝家が翌年の賤ヶ岳の戦いで敗れて北ノ庄城で自刃した後も秀吉に臣従しなかった。この為、天正13年(1585)に秀吉の討伐を受けるのだが、その際の本陣として白鳥城が選ばれている。だが、秀吉が富山城の包囲網を完成させる前に成政が降伏した為、秀吉が白鳥城に入ったのは、富山城からの引き上げの際であった。
 戦後、越中の内、新川郡を除く大部分は前田利長に与えられ、新川郡を安堵された成政に備えて利長は岡島一吉と片山延高を置いたが、後に2人は山城の不便さもあったのか、それぞれ安田城と大峪城に移っており、共通の詰城として位置付けされていたのだろう。ただ、天正15年(1587)になると、成政が肥後に移されて越中一国は利長の領地となっており、戦時の城は不用になった為、城が活用されていたかどうか不明である。その後、利長が慶長2年(1597)に富山城を居城とすると、その支城として白鳥城には一吉と延高が再び在城したことが見えるが、数年後に廃城となったようだ。
 城は、呉羽丘陵の最高部である標高145mの城山に築かれ、東側は断層による断崖となっているが、その崖際に天守台もある方形の本丸を置き、その周囲に1段下がって北に二ノ丸、西に本丸外郭、西一ノ丸が置かれていた。これが城の中核部だろう。この中核部の周囲に空堀などを挟んで東から反時計回りに三ノ丸、東ノ丸、北ノ丸、北二ノ丸、西二ノ丸と構えられ、稜線の続く東西にはそれぞれ東出丸と西出丸もあり、かなりしっかりとした構造の城である。ただ、丘陵上は高低が少ない為、城の北西から北東に掛けては緩やかで、その方向の防御面でやや心配が残る印象だった。
城内で最も広い本丸外郭 呉羽丘陵は、富山ではレジャーの山になっているようで、丘陵を貫く立派な2車線道路が整備されており、その頂上部の駐車場から城へ入ることができるので、山城ながら登りやすい城である。ただ、城内は史跡公園として整備されているのものの、削平地以外は藪と化しており、空堀や土塁などがほとんど確認できないのは残念だった。城から駐車場の反対側には標高が城とほぼ同じ程度のピークに展望台もあるので、少し歩けば立山と富山市外が一望できる絶景も楽しめる城である。