宮崎城 所在地 富山県朝日町
国道8号線城山トンネル付近
区分 山城
最終訪問日 2001/9/17
案内板と本丸石垣 親不知から市振、境にかけて、越後と越中の国境付近は断崖が続くが、その名の通り越中側の国境である境という地を見下ろす場所に城はある。境にある境川では、越後勢と越中勢の合戦が幾度もあったが、宮崎城は越中平野部への玄関口を押さえる峻険な山城で、越中の勢力の防衛拠点として、はたまた越後の勢力の越中侵入拠点として重要視された。
 古くは、寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで義仲側に味方した横山太郎長康が居していたと史料に残っており、義仲と共に築城したのもこの長康である。つまり、同年に後白河法皇の皇子以仁王の、その第一皇子である北陸の宮を奉戴する為に御所を築いたのが最初といい、一説には築城時期はその前年ともいわれる。
 その後、宮崎氏は承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇側に付いて討伐され、滅んだといい、南北朝時代には、宮崎城は北陸を転戦した新田氏などの戦略拠点のひとつとなった。具体的には、北朝から南朝に寝返った越中守護井上普門俊清が延文4年(1359)に敗れて宮崎城に退いたとあり、また、この俊清や後に越中で南朝方の最強硬派として活動した桃井直常は松倉城を本拠としていたことから、その影響下にあったのかもしれない。
 室町時代から戦国時代にかけては、越中国新川郡の守護代であった椎名氏の支配下にあったと思われるが、上杉謙信の祖父長尾能景や父為景の越中出兵でも何らかの役割を果たしたはずで、長尾氏、そして上杉氏の傘下に入っていた椎名康胤が武田信玄の誘いで離反した時には、謙信はこの境川と宮崎城の防衛線を突破し、永禄12年(1569)に松倉城を攻略している。
 越中を制した謙信は、宮崎城を越中への中継拠点として使っており、天正10年(1582)に織田軍が魚津城や松倉城を囲んだ際も、上杉景勝率いる後詰の先陣がまずこの宮崎城に入っている。この魚津城攻防戦の決着がついたのは本能寺の変の翌日で、信長横死の報が伝わると織田軍は攻め落とした魚津城などを放棄して退却したが、翌年には越中統一を進める佐々成政が東進して再び魚津城を奪取した。成政はそのままの勢いで宮崎城まで落とし、丹羽権平を守将として入れたが、さらにその翌年には景勝が奪い返すなど宮崎城の争奪が繰り広げられ、越中が前田家に与えられることによってようやく安定した。城には前田家の家臣である高畠氏や小塚氏が配されたが、その後、江戸時代初期に境関所の整備によって廃城になったと伝わっている。境関所の整備時期は桃山時代から江戸時代初期まで幅があるものの、もしかしたら元和元年(1615)の一国一城令まで城はなんとか維持されていたのかもしれない。
 横山氏が居城としていた草創間もない頃は、標高約250mという天険を恃みとした小規模な中世山城だったようだが、戦国時代に拡張され、前田氏時代に現在の形となった。櫓台を持つ本丸から西へ階段状に二ノ丸、三ノ丸と総石垣の郭が続き、本丸の南には堀切で区切った外郭があって、20間×30間ほどの広さと櫓台を持っている。山上の城としてはなかなかの規模であり、国境防備の性格が色濃く出ている城である。
 現在の城跡は公園となり、国道から城までは車道が通っている為、山城ではあるが城へは容易に登れる。城からの、特に天守台からの眺めは、日本海が一望できて非常に素晴らしい。
天守台から境関所方向