升方城 所在地 富山県魚津市
北陸道有磯海上りS.A.東南1.9km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/21
升方城本丸と城址碑 松倉城の支城。
 松倉城は、南北朝時代から東越中の拠点であり、城主が変遷していく中で随時、拡張と支城網の整備が行われた。升方城もその支城のひとつで、松倉城の北西に位置する城である。
 松倉城は、南北朝時代から史料に登場し、越中守護の本拠として機能しており、升方城と同じ支城である水尾城が貞和2年(1346)に陥落した文書が残っていることから、本拠城らしく支城網の構築は割と早い時期から進められていたと見られる。ただ、その貞和2年の史料に升方城が見えず、松倉城により近い水尾城に比べ、遅れて整備された可能性が高い。
 升方城の立地としては、松倉城から角川を挟んだ西向かいの山に水尾城があり、その峰続きの北西側に在る。ただし、間に鞍部があり、そこにも石ノ門という砦が築かれ、早月川の川筋から松倉城への道筋を抑えていた。つまり、角川と早月川の間の細長い丘陵部を横切る道を、水尾城と升方城で抑える機能があったということになる。また、同時に鹿熊から金山谷に拡がっていたといわれる松倉城の城下町の後背にもあたり、その防衛機能も備えていたのだろう。
升方城3D地形図 以上の事から推測すると、当初は水尾城が西側の防衛上重要な支城であったが、城下町の北への発展もあり、より大きな規模の升方城が整備されたのかもしれない。少なくとも、松倉城の末期には、各支城の大きさ比較して、升方城が最も重要であったのは間違いないと思われる。
 升方城の事跡については、松倉城とほぼ同じ歴史を辿ったと見られるが、詳細は不明という。城主の名としては、椎名氏時代にその家老小幡九郎が城主だったとされ、佐々成政の属城となった後は佐々新左衛門などの名が見られる。
 城の構造は、頂上部の長方形に近い楕円形の本丸から同心円上に1段下がって帯郭のような二ノ丸を配し、二ノ丸の周囲には土塁が構築されていた。その二ノ丸は、北側のみは削平地が広く、何らかの建物があったのかもしれない。この主郭部の南と北西に虎口があり、北西側が大手だったようで、石垣遺構や削平地、土塁なども確認できる。ただ、主郭部南西側に大規模な畝状竪堀があるらしいのだが、それは藪で確認できなかった。
左側の升方城二ノ丸の土塁と右側の本丸切岸 城へは、北陸道方向から早月川右岸の真っ直ぐな農道を遡ると案内表示が出ており、案内のまま左折して山へ向かい、途中で急坂の道へ右折すると城のすぐ下まで行く事ができる。急坂入口に注意看板があり、自分はそこから歩いたが、林道沿いに升方城跡と大きく書かれた公園がある為、快適な舗装路だった。松倉城の支城の中では最も城域が大きく、見応えもある城なので、松倉城に拠った際にはついでに寄っておきたい城だ。