小菅沼城 所在地 富山県魚津市
角川ダム北東1.7km
区分 山城
最終訪問日 2001/9/17
僅かに残る虎口の石垣は当時のものか不明 室町時代に越中国新川郡の守護代であった椎名氏の本拠松倉城の出城で、家老であった武隈氏の城。武隈屋敷とも呼ばれる。
 武隈氏の子孫が記したという武隈家記には、暦応4年(1341)に足利尊氏の命で相模から椎名胤明が松倉城に入部し、武隈元長もそれに従って三百山に住したという。ただ、椎名氏は鎌倉時代から既に越中に移住して基盤を持っていたという説もあり、実際のところはよく判っていない。
 いずれにしても、小菅沼城は武隈氏の居館から出発した城で、大手が魚津方向に向き、搦手が間道を通じて松倉城と繋がっていることから、松倉城と連携を取りつつ一次的な防御線を構築していた出城と考えられる。とは言え、規模的には一辺が60〜70mの単郭方形という典型的な居館城郭で、本城と同様に険阻な山に構えられてはいるものの、出城であるが故に大きな防御力は持ち合わせていなかっただろう。
現在も明確に残る右側の土塁と左側の削平部分 松倉城は、南北朝時代には主に南朝方の拠点として北朝方との戦場になってはいるが、この小菅沼城の周囲には石垣がある上、城門に桝形という戦国末期城郭技術が導入されていることから、居館から出城へと発展したのは南北朝時代ではなく戦国期だろうか。ただ、石垣自体は目が斜めに通る谷積みに近く、江戸時代の構築という説もある。
 戦国期の松倉城では、永禄3年(1560)に神保長職による攻撃があったが、椎名氏は長尾家に臣従していたことから、この時は後の上杉謙信である長尾景虎の救援で事無きを得た。しかし、同11年(1568)に椎名氏が上杉方から武田方へ寝返ったことにより、上杉謙信の3度の討伐を受けて翌年に落城しており、これらの2度の大きな戦いで小菅沼城も戦場となった可能性が高い。ちなみに、武隈家記では松倉城落城は天正4年(1576)のこととしている。
 椎名氏の家臣であった武隈氏の子孫は明治期までこの地に住していたというが、椎名氏は松倉城落城後も富山城などに転戦して一定の勢力を持っていたようなので、武隈氏も主君と共に各地を転戦したのだろう。武隈家記では、戦乱が収まった文禄4年(1595)に武隈元重が三百山を小菅沼に改名して居住したとあり、帰農して故地に戻ったと考えられ、城もこの頃までには廃城になっていたらしい。
小菅沼城郭内全景 現在の城地には石垣や土塁がよい状態で残っているが、跡地がそのまま民家の敷地として使われていた為、江戸時代にはある程度の改変があったのではないだろうか。この周辺にも居館跡が多くあるそうなので、当時は一帯が武家屋敷になっていたのだろう。また、城の少し下には田畑が広がるが、もしかしたらこれも武家屋敷跡を開墾したものかもしれない。
 松倉城から小菅沼地区へ下りていく途中の三叉路に城はあるが、駐車するスペースは無いので、車で訪れる人は注意が必要である。