舟見城 所在地 富山県入善町
富山地方鉄道愛本駅北3km
区分 山城
最終訪問日 2017/5/21
舟見城に建つ模擬天守 舟見城は、越中越後境目の宮崎城城主であった宮崎長康の嫡子入善行重が築いたというが、詳細は不明である。伝統的に、越後から侵入する軍勢に対する監視拠点のひとつであった。
 行重の出自である宮崎氏は、藤原不比等の次男房前が興した藤原北家の系統で、房前の五男魚名の流れである。魚名流の子孫に藤原利仁がおり、利仁の子井口光義が越中で勢力を扶養した為、越中にその子孫の家が多いのだが、その中でも石黒家とこの宮崎家は嫡流筋であったという。
 長康は、上方より逃れ落ちてきた北陸宮を保護し、木曾義仲に報せて宮崎城に御所を造ったとされる。そして、寿永2年(1183)には、義仲軍が平家軍に敗れた越前燧ヶ城の戦いや、反対に平家軍を大いに破った倶梨伽羅峠の合戦に参陣していることが見え、後には主に北陸宮の護衛の任にあたっていたようだ。また、子の行重は、上記の合戦に父と共に参加した後、叔父と共に加賀篠原の合戦に名が見えることから、宮崎一党を率いてそのまま上洛戦に参加していたと思われる。
 義仲は、上洛後に頼朝の命を受けた源範頼・義経兄弟に敗れ、没落してしまうのだが、この後も宮崎一党は生き永らえたようだ。鎌倉時代に入った後の承久3年(1221)に承久の乱が起こるが、この乱に宮崎定範という武将が見え、定範は一説に長康の孫という。上皇方に与した定範は、宮方の北陸勢の主たる武将のひとりとして宮崎城で北条朝時率いる幕府軍を迎え討ったが、衆寡敵せず砺波山に転じ、北陸勢はそこで敗れ去った。
城域の最高点となる南側の削平地 舟見城が築城されたのは、この源平合戦と承久の乱という2度の大きな戦いの頃という。現地案内板に拠れば、行重が北条軍に備えて築いたと考えるのが妥当、つまりは承久の乱の際の築城としているが、伝承のみで、承久の乱に関する史料には、行重や宮崎城の支城であった舟見城に関する記述は見えない。
 次に城の名が登場するのは戦国時代で、弘治年間(1555-58)に長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が越中に侵攻し、当時の城主飛騨守五郎左近尉は水ノ手を抑えられて敗れ、今の墓ノ木自然公園付近の黒部川に身を投げたといい、飛騨が渕の名が残っている。長尾氏の越中への介入は、景虎の祖父能景の頃から断続的にあり、弘治年間の戦いとなれば、守護畠山家の弘治の内乱に伴うものか、越中で長年に渡って勢力を持っていた一向一揆討伐に伴うものかと思われるが、背景はよく判らなかった。以後も、宮崎城の支城として椎名氏や上杉氏によって維持されたと思われるが、廃城時期も不明である。
 城は、黒部川の右岸、北アルプスの山塊が平野部に出たところの独立的な突端に築かれており、南から西に掛けては舟川が裾を洗った断崖となっている。その断崖上の北側に広い削平地を設け、そこから南へ郭を連ねていたようだ。平たく均されてしまっている現況からは、往時の様子は窺えないが、城域南側の標高がやや高くなっており、こちらに本丸があったのではないだろうか。ただ、削平面積から言えば北側のほうが遥かに広く、居住部分や主たる防御機能は北側の方が充実していたかもしれない。大まかには、南北は110m、東西は北側で75m、南側で30mの規模があった。
北側の削平部分と崖際の物見台らしき場所 現在の城跡は、芝生敷きの綺麗な史跡公園として整備され、舟見城址館という模擬天守が建っている。また、城の麓の県道には案内表示も多く、公園までは立派な舗装道路もあって、非常にアクセスし易い。ただ、反面、整備されすぎて遺構もかなりの部分が失われており、古城としての趣が無いのが城跡としては残念な点だろうか。実際、周囲を歩き回ってみたが、北側突端部に痕跡らしきものを確認できた程度だった。ただ、舟見の名の通り、麓の田園から遠く日本海の船影まで一望できる眺めは今も健在である。