米子城 所在地 鳥取県米子市
JR米子駅西1.2km湊山公園周辺
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/26
大手桝形の石垣 米子城の前身は、現在の国道9号線を挟んだ向かいの飯山にあった砦である。この砦が築かれたのは、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の頃と考えられ、米子市の資料には山名教之の家臣山名宗之が築城したとある。当時の状況から、伯耆の守護であった山名氏によって京極氏が守護を務める出雲への足掛かりとして築かれたと考えられるが、山名勢が文明2年(1470)に出雲へ乱入した際には、守護代尼子清定に撃退されて侵攻は失敗している。その時、この米子城に撤退したということが史料にあり、これが米子城の初見という。
 その後、翌3年(1471)には城主として山名之定の名があり、以後も依然として山名氏側の城であったようだが、清定の子経久の時に尼子氏が勃興し、逆に伯耆山名氏が内訌で衰えると、大永年間(1521-28)頃に経久が山名氏の内訌に介入して米子城を支配したらしい。以前は大永4年(1524)に大永の五月崩れで落城したとされていたが、この電撃戦自体の信憑性が低く、実際には尼子氏は段階的に伯耆へ進出したようで、その過程で米子城も経久の手に落ちたと考えられる。
 尼子氏が支配した後、戦国時代の勢力の変遷の中で尼子氏に代わって毛利氏が勃興してくると、米子城は永禄年間(1558-70)中頃から毛利氏が支配するようになった。元亀2年(1571)には、山中鹿之助幸盛が主導する尼子再興軍の秋上久家や羽倉元陰が攻め寄せ、城将福原元秀を討ち取ったが、城は落ちなかったようで、その尼子再興軍も毛利家臣杉原盛重に敗れている。この尼子再興軍が壊滅して以降は、出雲や伯耆の毛利氏支配が安定し、やがて古曳吉種が米子城主となっていたようだ。ただ、この頃までの城は、飯山の砦をもとにした中世的な城だったと思われる。
 城が現在のように湊山を中心とする形に改修されたのは、毛利氏が支配した天正年間(1573-93.1)である。改修者や改修時期にはいくつか説があり、山陰を統括した吉川元春の在世中とも、その三男広家によるともいわれ、広家の説にも天正16年(1588)や同19年(1591)といった改修開始年の説があるが、一般的には広家によって同19年に改修が始まったとされている。広家は、長兄元長の早世で元春の跡を継ぎ、出雲東部と伯耆西部を領して月山富田城に在ったが、奥まった富田城では統治や産業の振興に不利と考え、水運の便があり、防衛拠点としても期待できる湊山に城を築くことを決めたという。
 しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、東軍に内通していた吉川広家は家康に賞されたものの、毛利本家が取り潰されそうになると自分の恩賞の代わりに本家を潰さぬよう懇願し、その結果、毛利氏は防長二州に押し込められ、広家もこれに従って岩国に転封となってしまった。この時点で城の改修工事は終わっていなかったが、基本的な普請は終わっており、四層の天守も完成していたという。
 広家に代わって米子に入部したのは、秀吉に古くから従って三中老を務めた中村一氏の子一忠だったが、一忠は一氏の合戦直前の病没に伴って家督を継承したばかりで、まだ10歳を過ぎたばかりの幼年であった。この為、家老横田村詮の補佐を受け、途中だった改修工事を継続し、四層の天守の横に五層の天守を築くなど、慶長7年(1602)にようやく米子城を現在の形に完成させた。
 しかし、中村家の治世は短く、慶長14年(1609)に一忠が早世して断絶となってしまった為、加藤貞泰が翌年に米子城へ入り、元和3年(1617)には鳥取に入部した池田光政の属城となって光政の叔父由之が城代を務めた。由之の死後は子由成が城代職を引き継いだが、寛永9年(1632)に光政とその従兄弟である岡山藩主池田光仲が領地を入れかわると、家老の荒尾成利が城代となって、そのまま明治維新まで続いた。
 城の構造は、2つの大小天守を中心に、山上に本丸と二ノ丸を擁し、麓に三ノ丸を置き、出丸として内膳丸と飯山の采女丸を配している。また、城の西の裏手海岸は深浦と称して船手小屋を持つ郭があり、他の三方は全長1100mの内堀が囲んで主郭を隔絶させ、内堀と外堀の間が侍屋敷で郭内と呼ばれていた。城は、維新後の明治5年に建物なども含めて払い下げられ、同9年から13年頃には売却されて取り壊されたというが、四重櫓と呼ばれた経家時代の天守と一忠時代の五層の大天守が並立するという形は珍しく、残されていれば国宝級の天守になっていたと思われる。江戸時代に焼失や倒壊したのなら仕方ないが、それらを免れていただけに、明治になっての取り壊しは実に惜しい。
 現在は湊山公園として城跡が保存されており、近代城郭の勇壮な石垣が健在であるらしい。また、山上への遊歩道も整備されており、散策すると非常に気持ちがいいと思われるが、残念ながら訪れた時は石垣の補修工事中で山上には入れず、麓のみの散策しかできなかった。