打吹城 所在地 鳥取県倉吉市
倉吉市役所後背打吹公園周辺
区分 山城
最終訪問日 2001/10/25
打吹城見取図 築城は南北朝時代で、足利尊氏に従って後に5ヶ国の守護となった山名時氏の子師義が築城した。それまで居城としていた田内城は時氏時代からの守護所であったが、これを廃して移ったという。築城年代ははっきりしていないが、延文年間(1356-61)頃とも、時氏所縁の田内城から移ったことから時氏が死去した応安4年(1371)頃ともいわれている。
 時氏の跡を継いで惣領となっていた師義の死後、弟である時義や氏清の頃に山名氏は大いに発展したが、その勢力を警戒した3代将軍義満に挑発され、明徳2年(1391)の明徳の乱で大きく勢力を後退させた。この頃の伯耆守護は師義の子氏之であったが、当然のことながら乱の登場人物のひとりとなっており、乱の前に伯耆守護を剥奪され、乱の後には功によって再び守護に返り咲いている。
 氏之の後、伯耆守護家は孫の教之が相続したが、応仁の乱を挟んで山名家の統制が乱れる中、教之の孫で守護に就いた尚之とその従兄弟澄之との間で、伯耆を巡る争いが繰り広げられた。この時、伯耆進出を狙う尼子経久が澄之を支援し、尚之が没落して澄之が守護の座を手に入れるが、経久の孫晴久が守護代となるなど尼子氏の傀儡に過ぎず、やがて澄之は尼子氏と対立して没落したらしい。大永4年(1524)に尼子氏による電撃戦、所謂大永の五月崩れと呼ばれる戦いによって、打吹城を始めとする伯耆の諸城が陥落したいう説もあるが、守護を巡る争いの過程を見ると、尼子氏が守護家の内紛に乗じて蚕食していったというのが妥当なところだろう。そして、打吹城は山名氏累代の守護所という象徴的な城であっただけに、澄之と尼子氏の対立が決定的となった時点、恐らくは大永享禄年間(1521-32)頃に落城したのではないかと思われる。
 いずれにしても、打吹城は山名氏の手を離れて尼子氏の支配するところとなったが、その尼子氏はやがて毛利氏によって圧迫され、永禄9年(1566)に滅亡し、打吹城もその頃までに毛利氏の支配下となった。そして、中央で信長が勢力を拡大し、天正8年(1580)になってその部将であった秀吉が中国方面軍となって因幡に侵攻すると、これに対する前線基地として山陰を統括する吉川元春が在城するなど機能したが、同9年(1581)の鳥取城陥落を経て同10年(1582)に本能寺の変が起こると、秀吉と毛利氏の和解が成立して境界が定められ、秀吉に味方していた羽衣石城主南条元続に与えられた。
 元続は、本拠羽衣石城と同じぐらいこの城を重要視したようで、一族や重臣を城代として送り込むと共に城や城下町の整備を図り、現在の倉吉市街の原型もこの頃に成立している。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で南条氏は西軍に属して改易となり、打吹城は、伯耆を与えられて米子に入部した中村一忠の属城となった。その後、一忠は慶長14年(1609)に嗣子が無いまま死去して断絶し、天領となった後、里見忠義が安房から流されて倉吉に入部したが、城に入ることはなく、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となって250年の歴史に終止符が打たれた。しかし、倉吉は江戸時代を通じて麓にあった鳥取半家老荒尾家の家老屋敷を中心に城下町、宿場町として栄え、東伯耆の中心都市であり続けている。
 城は、天女伝説の中で、天女を地上に戻らせる為に鼓を打ち笛を吹いた場所という標高208mの打吹山にあり、東北隅に天守台を持つ山頂の本丸から、峰伝いに直線的に複数の郭を配して主郭としている。その周囲には、南条氏配下の城代だった3人の武将が本拠とした出丸があり、それぞれ南条元信の備前丸、山田越中守の越中丸、小鴨元清の小鴨丸といった。
 これらの遺構は現在も残っており、また、石垣や堀切も散見することができるが、全体的には史跡として整備されているという感じではなく、公園整備のついでに少しだけ整備したという感じだ。訪れた時は、夕暮れ直後という時間になってしまった為、じっくり散策とはいかなかったが、遊歩道は割としっかりしているので、特に足元を気にすることなく散策はできた。また、城だけではなく、荒尾氏の陣屋や少し遠いが里見氏の屋敷跡など、倉吉の町並みを見ながらこれらの史跡を散策するのもいいかもしれない。