防己尾城 所在地 鳥取県鳥取市
JR末恒駅南2.1km湖山池西岸
区分 平山城・水城
最終訪問日 2013/5/12
本丸跡にある城址碑 現地にひらがなで「つづらお」城跡とあったが、中世には「つづらを」と書いていた。ちなみに防已(ボウイ)というのが漢方でのつづらの事で、城名は已がやがて己に誤記されたものと思われる。
 城は湖山池に突き出た数10m程度の小山にあり、吉岡定勝が築いたという。具体的な築城年代としては、定勝が3年間在城したということから、秀吉の鳥取城攻めがあった天正9年(1581)より逆算して同6年(1578)頃と考えられている。しかし、鳥取市の資料によれば、草刈文書の中に防己尾城主妹尾右京亮の名があり、天文13年(1544)頃には城が既に存在していたようだ。恐らく、以前からあった城を定勝が改修して本拠にしたということだろう。
 吉岡氏は、湖山池の南西岸一帯に勢力を持っていた国人領主で、詳しい出自は不明だが、南北朝時代に山名氏が山陰で勢力を拡大すると、その家臣となっていたようだ。その最初期の本拠は、吉岡温泉近くの六反田の丸山城で、室町時代末期に吉岡春斎入道が築城したとされるが、この春斎は定勝の父であり、最初期の城といっても比較的歴史が浅い。それ以前の吉岡氏の事跡は不詳で、恐らくは今の吉岡温泉一帯の集落から身を興した土豪なのだろう。もしかすると、吉岡温泉開湯の伝説に出てくる平安時代の葦岡(よしおか)長者の子孫なのかもしれない。
防己尾城本丸 その後、吉岡氏の本城は丸山城から吉岡温泉南東の蓑上山へ移され、更に定勝がこの防己尾城へと移したが、防己尾城が有名になるのは、前述の秀吉による因幡侵攻の際の吉岡合戦によってである。城主であった定勝は、この因幡侵攻の際には毛利氏に属して籠城し、鳥取城の支城としての役割を担っていたが、支城潰しを図って攻め寄せる秀吉軍に対して奇襲を行い、3度に渡って撃退したという。また、2度目の撃退の際、定勝の弟右近が秀吉の千生瓢箪の馬印を奪ったのは有名な話である。だが、城兵の士気をの高さを見た秀吉は力攻めをやめ、亀井茲矩に命じて城を包囲し、鳥取城と同様に兵糧攻めにして落城させた。落城後、湖山池一帯に勢力を培ってきた吉岡一族は落ち延びて帰農し、城も廃城になったという。
 城の構造は、湖山池に突き出している半島の根元を堀切で区切り、その先にある峰の頂上を削平して主郭が置かれている。北側の小山が本丸で、続く峰に二ノ丸、谷を挟んだ南東側の小山に三ノ丸があり、北側の突端には船着場があった。ただ、標高は前述のように数10mの丘陵程度と低く、城の規模も中小領主の城としては標準的な大きさであることから、三方を湖に囲まれているという立地が城の最大の防御力であったのだろう。それに加え、船着場があったことから、吉岡氏は小さいながらも水軍を持っていたと考えられ、戦時はそれを活用して湖面から城へは近付けさせず、更には地形を知り尽くしたの陸側のゲリラ戦法とうまく連携させて秀吉軍に立ち向かったと考えられる。また、湖山池南西岸を勢力圏としていたことや水軍の存在から想像するに、平時は湖山池や千代川へと通じる水上交通を掌握して収益を上げていたのだろう。
三ノ丸に残る堀切 本丸と三ノ丸の間を歩いてみると、本丸と三ノ丸の峰筋が腕を伸ばすようにあり、その間の谷筋が傾斜を持ちつつも綺麗な平地になっていることがわかる。中世的な城郭では、郭がある峰筋の間の谷筋に居館を置く事が多く、この防己尾城でも地形的にそのような雰囲気があったが、現地では居館に関しては触れられてはいなかった。谷筋は公園造成の際に平地化したものかもしれず、また、築城時期が居住空間を城と一体化させていた戦国末期で、主郭部にも十分な削平地があることから、居住空間を主郭部に組み入れていた可能性も高いのだが、あまりに典型的な地形ということもあり、気になるところだ。
 現在、城跡は公園として整備され、本丸跡には大きな展望台が設置されており、湖山池と鳥取市街を一望できる眺めは清々しい。公園として整備されていると言っても、本丸の展望台部分を除けば、郭間の武者走りのような地形や小さな削平地などといった旧態を比較的残しているので、木々に埋もれる古城としての雰囲気は保たれている。一方、谷筋を挟んだ三ノ丸は、城域の中で最も整備されており、芝生が敷かれ、東屋などもあって、そのまま遠足などでピクニックができそうなほどだった。三ノ丸周辺の堀切などの遺構もしっかりと残されており、整備されているだけにこちらの方が明確で解り易い。標高も高くなく、整備されてもいる良い城なので、お城に興味が無い人でも十分に散策を楽しめる城である。