鳥取城 所在地 鳥取県鳥取市
鳥取県庁北800m
区分 平山城
最終訪問日 2011/5/22
鳥取城縄張図 秀吉による兵糧攻めの舞台として有名で、江戸時代は鳥取藩池田家の首城であった。
 鳥取城の築城年代は、天文年間(1532-55)中頃と見られているが、はっきりしていない。具体的には、因幡守護である因幡山名氏とその宗家但馬山名氏との対立の中で、因幡山名氏の本拠天神山城の出城として天文14年(1545)に築かれたという説と、但馬山名氏が天神山城に対する付城として同12年(1543)頃に築いたという説がある。史料には、因幡山名氏の誠通と結んだ尼子氏が、同13年(1544)に鳥取城を攻めたと思われる記述があり、但馬山名氏築城説が有力のようだ。ただ、この頃の城には城代として武田国信がいたとされ、同14年(1545)にあまりに堅固な改修を施した為、誠通に叛意を疑われて謀殺されたといい、但馬山名氏築城説に従えば、誠通が築城直後に鳥取城を奪っていたということになる。
 その後、誠通は同15年(1546)かその翌々年に但馬山名氏の祐豊に敗れて討死し、因幡には祐豊の弟豊定が入った。この頃に武田豊前守常信なる武将が鳥取城に在ったという説があり、この常信は、国信との同一人物説もあるが、史料に僅かに見えるのみで、どのような存在だったかというのはよく判っていない。
 鳥取城が歴史に大きく登場するのは、国信の子高信が世に出てからである。高信は、山名氏に叛旗を翻して鳥取城を奪い、尼子氏を圧迫していた安芸毛利氏と結び、誠通の子豊成を毒殺したほか、豊定の子豊数も天神山城から追った。こうして鳥取城を本拠に因幡の最大勢力となった高信だったが、因幡毛利氏や矢部氏といった有力国人を掌握し切れず、やがて山中鹿之助幸盛率いる尼子再興軍が因幡へ侵入すると、国人層の離反を受けて元亀3年(1572)か翌年の甑山城での戦いに敗れてしまう。更には、退却先の鳥取城も激しい攻撃に晒された為、和睦して城を明け渡した。
 代わって城主となったのは、豊数の弟豊国だったが、天正元年(1573)に安芸毛利家で山陰を統括する吉川元春の軍が迫るや、すぐに降伏している。元春は、市場城主で因幡毛利氏の毛利浄意を城将に据えたが、この後、翌年に再び尼子再興軍の侵入で城は陥落し、更に翌年には再び吉川軍が尼子再興軍を因幡から追い出すなど、情勢は目まぐるしく変わっていく。このような中、豊国は安芸毛利方として鳥取城主に返り咲き、目障りな高信を天正4年(1576)か同6年(1578)に謀殺し、独自の地位を確立していった。
 しかし、時代が織田家と毛利家の対決へ向かう中、境となる因幡も当然その影響を受けるようになる。まず、天正8年(1580)に織田家の中国担当である秀吉軍が因幡に侵攻して鳥取城を囲み、豊国は3ヶ月の籠城に耐えたものの、結局は降伏に追い込まれた。だが、因幡を救援すべく元春が出陣すると織田勢は撤退し、豊国は再び毛利氏に従うのである。このような反復常無き行動を家臣が嫌ったのか、この後、豊国は家臣に追放されたとも、自ら逃走したともいい、一説には、翌年の籠城直前まで在城して織田方に情報を送ったともされるが、いずれにしても豊国が城を出たのは間違いない。
山上ノ丸の天守跡 豊国が城を出た後、旧家臣らは毛利家に然るべき将を請い、最初は牛尾元貞が、その負傷後は吉川経家が選ばれた。しかし、経家が手勢を率いて入城した際には、前回の籠城の影響で兵糧や軍備が残り少なく、まともに動ける人足も少数だったという。しかも、秀吉による城下の物資の買占めで、買い足そうにも物が無かった。このように準備が整わないまま、翌天正9年(1581)の6月から7月にかけて秀吉が再び因幡に侵入し、鳥取城を囲んだ。これが、渇え殺しとまで呼ばれる凄惨な籠城戦の始まりである。
 秀吉は、城の周囲に土塁や柵、塀を設け、更に付城や陣屋を築いて包囲網を築き、海上からの輸送路も完全に封鎖して補給路を断った。そして、出城の雁金城を落としたほかは大した合戦もせず、城から逃走しようとする兵は鉄砲で威嚇して城の外に出さないようにし、できるだけ早く兵糧を枯渇させるよう仕向けたという。これにより、城中は早々に飢え、家畜を喰いつくし、やがては銃撃されて瀕死となった兵の息があるうちに人々が群がって人肉を食べるという、まさに地獄絵図とも言うべき惨状が繰り広げられたのだった。このような状況を見ては経家も合戦の継続を断念せざるを得ず、副将である中村春続、森下道誉と共に、城兵の助命を条件として10月に切腹し、開城したのである。
 秀吉による攻略後、鳥取城には宮部継潤が城代として入り、後に領地を与えられて城主に昇格したが、子長房は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属した為、亀井茲矩や斎村政広などに攻撃され、城下も焼失した。戦後は池田輝政の弟長吉が入封し、元和3年(1617)には本家の池田光政が姫路から入部したが、寛永9年(1632)には従兄弟である岡山藩主の光仲と入れかわり、光仲の系統が維新まで続いている。
 城は、山麓の山下ノ丸と呼ばれる近世城とは別に、後背の久松山に山上ノ丸と呼ばれる城があり、戦国期はここが主城であった。当時は自然の地形を利用した中世的な山城の延長で、天守櫓のある高所を中心に、東側の高所に外神砦、西の峰筋に鐘ヶ平、太鼓ヶ平、松ノ丸などを擁しており、現在でも平坦な地形を残している。もちろん、秀吉の兵糧攻めも、この場所と、向かいにある太閤ヶ原に陣取った秀吉軍との間で行われたものであった。麓の部分は、従来は宮部父子が北ノ御門付近を整備し、関ヶ原の合戦後に入った長吉が東南方向に拡張したものと考えられてきたが、石垣を調査したところ、天球丸周辺や山上ノ丸の石垣のほとんどが宮部時代のもので、この頃には基本的な形が造られていたらしい。そして、長吉時代に合戦で焼失した城下町を北西に整備したほか、大手を中ノ御門に移して二ノ丸を拡張し、光政時代の改修で完成したという。
走櫓跡から菱櫓台石垣 明治12年に建物などが撤去されてしまった為、現在の城には城門しか残っていないが、山下ノ丸を歩くと、戦国期の山城から平時の平山城への変遷を遂げた優美な近世城の姿があり、2ヶ国の太守の首府であったという威容が石垣から伝わってくる。その一方、山上ノ丸まで登ると、秀吉が陣した太閤ヶ平が見渡せ、兵糧攻め当時の殺伐とした城の雰囲気が少し感じられた。中世と近世の城が山上と麓に残る城はいくつかあるが、ここまで雰囲気が違うのはあまりないので、鳥取城に行くなら、是非とも趣の違う山上と麓の城を散策してほしい。