天神山城 所在地 鳥取県鳥取市
県道264号線沿い鳥取緑風高校後背
区分 平山城
最終訪問日 2011/5/21
天神山城案内板 室町時代から戦国時代にかけて因幡を支配した因幡山名氏の居城。
 山名氏は、一時は全国66ヶ国の内、一族で11ヶ国の守護を占めて六分の一殿と呼ばれた守護大名であったが、足利氏一門ではなく、新田氏の系である。南北朝時代の当主時氏は、尊氏の母が母方の叔母という縁で新田氏ではなく尊氏に属し、主に山陰地方の守護職を得た。その後、観応の擾乱では幕府に叛くのだが、貞治8年(1363)に領地安堵を条件に帰順し、その際に勢力を扶養していた因幡の守護職にも補任されている。そして、因幡守護職は三男氏冬、氏冬の子氏家へと継がれていくのだが、まだ役職の世襲が後世ほど明確ではなく、一族内での役職の異動もあった時代で、氏家の次は時氏の九男高義の子である熙高が引き継いだ。熙高には熙成と熙幸という子がいたが、家督争いが起こったようで、熙成が追われて熙幸が守護に就くものの、熙幸には子がなかったようで、伯耆守護の教之の子豊氏が養子に入って家督を継ぎ、この豊氏がそれまでの守護所であったニ上山城から天神山城に居城を移したという。
 ただ、これには異説があり、氏家の子熙貴は石見守護となっていたが、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で将軍義教と共に暗殺され、その分家を惣領山名宗全の三男勝豊が継ぎ、因幡守護となって文正元年(1466)に天神山城を築いたと因幡民談記や因幡志には書かれている。だが、勝豊自身の経歴に不明な点が多く、史料的な裏付けにも乏しい為、この説は現在ではほぼ否定されているそうだが、豊氏築城にしても、勝豊築城にしても、天神山城の築城時期はぼぼ同じと考えていいだろう。
 その後、豊氏の子とも勝豊の子ともされる豊時が守護の時、文明11年(1479)と長享元年(1483)の2度に渡って毛利次郎の乱が起こり、山名氏惣領をも巻き込んで独立色の強い国人衆との戦いが起こった。この戦いは山名氏側の勝利に帰したのだが、それ以後も因幡の国人は勢力を保ち、なかなか山名氏の専制化は進まなかったようだ。
主郭の大きな平坦地 また、豊時の子豊重の時代になると、本宗家の領国但馬に隣接するが故に、惣領の介入で一族内訌の色が濃くなってくる。豊重は当初、惣領の致豊と良好な関係だったようだが、その弟誠豊が惣領に就くと関係が悪化し、誠豊は豊重の弟豊頼を支援して介入を始め、やがて豊頼が永正9年(1512)に豊重を討って守護職を強引に継ぐ。しかし、翌年には豊重の子豊治に天神山近辺にまで攻め込まれ、同12年(1515)頃までには豊治が守護職を奪い返したようだ。だが、争いは続き、豊頼の子誠通も誠豊の支援で豊治と争い、大永3年(1523)には城の外郭の布勢仙林寺で合戦が行われている。その後、討死か病没かで豊治の急逝があり、晴れて誠通が守護を継ぐ事になるが、誠豊が死去して祐豊が惣領となると、伝統のように誠通も惣領家と対立した。誠通は西に勃興した尼子氏と誼を通じ、その偏諱を受けて久通に改名するなど、山名惣領への対決姿勢を明確にしたが、天文17年(1548)かそれ以前に本家の軍勢による攻撃で討死してしまう。この後、誠通の子豊成が鹿野城で僅かに勢力を保つものの、因幡山名氏による支配は事実上終わりを迎えた。
 誠通が討死した後、祐豊の弟豊定がこの城に入って統治したが、因幡守護職は山名氏の手を離れ、正式に幕府から任命されたのは尼子晴政だったようだ。豊定が永禄3年(1560)に死去した後、祐豊の子棟豊が入部するも、すぐに早世してしまった為、豊定の子豊数が引き続き統治にあたったが、重臣武田高信の台頭や国人統治の難しさがあり、国内は決して安定はしていなかった。そんな中、高信が同6年(1563)に山名豊弘を擁して叛旗を翻し、豊数は高信討伐に手を尽くすが、同年4月の鳥取城下の湯所口での戦いに敗北してしまう。この敗北と主要な重臣達の討死は決定的で、同年末にはこの城から豊数が退去せざるを得なくなってしまうほど勢力を後退させてしまった。
 天神山城の廃城は、後に豊数の弟豊国が高信を鳥取城から追って同城を本拠とした天正元年(1573)とされるが、豊数退去後は城が表舞台に登場せず、また、高信も鳥取城を本拠としていたことから、空城で使われていなかった可能性もある。いずれにせよ、少なくとも同年以降、廃城だったのは間違いなく、後の江戸時代に池田光政が鳥取へ入部する際に本拠地の候補に上がったものの、整備に手が掛かりすぎるとの理由で採用されなかったというから、この頃には長年の放置で相当荒廃していたようだ。
台状地形南側の堀切のような地形 城の構造は、天神山を南北400m、東西300mの方形の内堀が囲い、更に外側に布勢古墳のある卯山を包含する形で大きな外堀があった。守護所は平地にあったらしく、天神山が山名氏の詰、卯山が重臣らの詰だったようだが、天神山より卯山のほうが高く、構造的にも防御力はそれほど大きくなかったと思われる。ただ、二重の堀や城下に通じる運河などを考えると、水軍の運用を想定した水城とも言え、その運用次第では強固な城になったのかもしれない。
 現在は、城が鳥取緑風高校横ということもあってか、城への道が周辺とかなり隔離されていた。城の本体部分は、北東側中腹に幾つかの小さな段郭と、頂上部に大きな細長い郭というシンプルな構成で、防御力よりも居住性が優先されたような感じである。高さも10mそこそこで、守備力をあまり期待できない高さなのだが、山自体はお椀型で裾の勾配がきつく、簡単に登れる風ではなかった。山上主郭部には、南側に一段高い台状の場所があるが、史料には三層の天守があったとされており、実際に石垣を連想させるような岩も転がっていたことから、ここが天守台だったのだろう。また、この台状地形の南側にも堀切のような人工的な地形があり、何らかの機能があったと想像できるのだが、用途自体はよく分からなかった。その他の遺構としては、主郭北側の古井戸が良好に残っている。
 城からは湖山池の眺望が開けているが、非常に涼やかな眺めで、往時の山名家の人々もここから景色を眺めたことだろう。この城は、防御的な観点ではやや物足りないのだが、このような優雅な景色を味わえるという点が、戦国大名とは違う守護大名らしい城地選定と言えるかもしれない。