鹿野城 所在地 鳥取県鳥取市
JR浜村駅南5.9km鹿野中周辺
区分 平山城
最終訪問日 2013/5/12
鹿野城案内図 築城時期は不明だが、国人の志加奴氏によるものと伝えられる。この志加奴氏との繋がりは不明だが、天文13年(1544)には鹿埜入道以下300の将兵が尼子晴久の攻撃によって討死した記録があり、以降は尼子氏か、その庇護下にあった因幡山名氏が支配したようだ。
 永禄年間(1558-70)初期の城主としては、因幡山名家の豊成の名が見えるが、家臣筋である鳥取城の武田高信によって永禄6年(1563)に毒殺されている。また、同年には但馬山名家の流れである山名豊数が、天神山城を高信に攻められ、この鹿野城に退去しているが、反攻できぬまま同年中に死去したという。
 その後、城は尼子氏を滅ぼして因幡への影響力を強めた毛利氏が支配し、家臣の三吉三郎左衛門や進藤豊後守などを城番として進駐させたが、亀井茲矩が天正8年(1580)の秀吉による第1次因幡侵攻の際に攻撃し、奪取した。この時、進藤豊後守は因幡諸将の人質を引き渡して開城したという。
 茲矩は、山中鹿之助幸盛の娘婿で、幸盛率いる第2次尼子再興軍が天正3年(1575)頃に因幡を席巻した時にはこれに参加しているが、その後は袂を分かって秀吉の直臣となったらしく、尼子主従が全滅した上月城へは入城していない。そして、この因幡攻略戦では、因幡の地理に習熟しているのが評価されたのか秀吉に重用され、鹿野城攻略後はそのまま城番となった。
 この第1次因幡攻略戦で秀吉は、他の因幡諸城も攻略したが、後に吉川元春の来攻を知ると、準備を整える為に一旦播磨へ退くことを決め、茲矩にも退去を命じたという。しかし、茲矩はそのまま城に残り、しかも守るだけでなく、翌年の鳥取城包囲までに周辺諸城を攻略し、その功によって鳥取城陥落後には城主に格上げされている。
鹿野城天守台 茲矩は、秀吉没後は家康に近付き、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍に属して関ヶ原本戦後の鳥取城攻めに参加した。この攻城時に鳥取城下が焼失してしまうのだが、それは亀井隊によるという説が濃厚で、茲矩はその責任を東軍に寝返って城攻めに参加していた斎村政広に押し付けたという。鳥取城下の焼失に家康は激怒し、責任を押し付けられた政広は切腹に処されてしまっており、西軍に味方した負い目につけ込まれたとは言え、気の毒な話である。やはり、生き残りにかけては、尼子家の没落から幾度も修羅場を切り抜けてきた茲矩のほうが数段上手だったということかもしれない。その後、茲矩は鹿野城主のまま加増を受け、元和3年(1617)に子政矩が石見津和野へ移封するまで、亀井家が鹿野を領した。
 亀井家の転出後、鹿野城は鳥取藩池田家の属城となり、家臣の日置忠俊が城代となったが、寛永5年(1628)の火災で城は一部を焼失し、同9年(1632)に鳥取藩池田家と岡山藩池田家が領地交替になった際には、時代の流れもあって代官が置かれるのみとなり、城代すら置かれなくなっている。そして、しばらく経った同21年(1644)に城は廃されたという。ちなみに、江戸時代に鳥取藩の支藩として池田仲澄の鹿野藩が成立しているが、これは蔵米支給の藩であり、城の再興というような話にはならなかったようだ。
 戦国期の鹿野城は、山上の郭群のみで中世的な山城の形式だったが、その後、茲矩・政矩父子によって近世城郭へと改修が行われ、中規模ながら三層の天守を持つ惣構えの平山城となった。改修時期は、関ヶ原の合戦直後の慶長6年(1601)かその翌年からで、6年程度の歳月であったらしい。往時は、頂上の天守から二ノ丸、三ノ丸、四ノ丸などの石垣を備えた郭を階段状に設けて防御を固める一方、麓にも政庁機能を優先したと思われる城郭構造が形造られている。麓の郭は、最も山側に近い部分に山城部分とは別に本丸を設け、その外側に内堀や薬研堀を穿って区画し、更にその外に二ノ丸、そして外堀があった。また、城は仏教思想から王舎城とも呼ばれ、南蛮貿易を物語るものか、オランダ櫓、朝鮮櫓という変わった櫓の名も伝わっている。
 現在は城跡に城山神社が祭られているが、最高部の天守跡には天守の礎石が確認できるほか、散策してみると戦国期の段郭も山城部分には無数に見られ、戦いの歴史を持つ城らしい遺構が古城の趣を醸し出していて良い。また、麓の平城部分も二ノ丸跡が鹿野中学校の敷地として利用されてはいるが、二重の堀がきちんと残っていて、こちらには近世城の雰囲気がある。ちなみに、中学校の敷地は特に制限もされておらず、休日ならば学校に迷惑を掛ける事無く見学が可能だ。
麓の鹿野城址碑と内堀 かつての城下町に目を向ければ、廃城以降は次第に寂れたというが、当時の町並みが今も多く残っており、こちらも非常に落ち着いた雰囲気が漂って良い感じである。以前に訪れた時は、国道から離れているせいか非常に静かで車や人通りも少なく、時間に追われる日常生活を忘れそうになるぐらいだったが、最近はこの古い町並みが観光地として少し注目を集めるようになっているらしい。とは言っても、萩などの有名所ほどではなく、観光客もチラホラといった程度であり、鄙びた雰囲気が好きな自分には十分に心地よかった。