丸山城 所在地 鳥取県鳥取市
鳥取県庁北西2.5km
区分 山城
最終訪問日 2013/5/12
丸山城将の慰霊碑 鳥取城攻防戦において有名な城で、鳥取城の出城の機能があった。
 鳥取市内には3つの丸山城があり、一般的に鳥取、もしくは因幡の丸山城と言えば、この城のことを指す。ちなみに、あと2つは河原の丸山城と吉岡温泉近くの六反田の丸山城で、河原の丸山城には河原城という展望台が建っており、河原城と言ったほうが通りが良い。もう一方の六反田の丸山城は、豪族吉岡氏の最初期の城といわれている。
 丸山城の築城時期には、天正年間(1573-93.1)初期と、同9年(1581)の秀吉による鳥取城攻撃の直前という2つの説があり、それぞれ築城背景が違う。天正年間の初め頃とすると、山中鹿之助幸盛率いる尼子再興軍と毛利方の武田高信との間で激しい攻防戦が行われて鳥取城主の交代があった時期であり、その攻防拠点として丸山城は築かれたと考えられる。一方、秀吉による鳥取城攻撃の直前とすると、眼下の千代川を使った補給線の確保という意味が大きく、鳥取城将として迎えられた吉川経家の命で築かれ、兵站拠点としての機能がより重要視されたのは間違いない。ちなみに、千代川は大正時代に改修されて直線化されたが、それまでは蛇行した流路で、丸山城付近では現在の袋川の辺りを流れていた。眼下に千代川という一級の水運が控えていたことを想像すると、丸山城という兵站拠点の重要性がよりはっきりとしてくる。
 天正9年(1581)6月末から始まった鳥取城攻防戦では、丸山城将として奈佐日本之介、佐々木三郎左衛門などが入城し、雁金山城の塩冶高清と共に鳥取城の補給線を担った。毛利方からの補給物資は、海から千代川を遡って丸山城に荷揚げされ、丸山城からは峰筋で鳥取城と連携する雁金山を通じた尾根伝いの陸路で行われたという。しかし、秀吉の家臣宮部継潤が中継地である雁金山城を落とし、補給を担う毛利水軍も8月の秀吉軍との海戦で敗れると、補給手段は完全に絶たれ、鳥取城はもちろん、雁金山城の敗残兵を受け入れた丸山城でも飢えが急速に進んだ。これにより、渇え殺しと呼ばれた兵糧攻めは完成し、城中は人肉を喰らうほど飢え、その凄惨さから、当時の事を記した史料には餓鬼やあわれなどという文字が多く並ぶこととなる。
 鳥取城将の経家は、このような状態での継戦の不可を悟り、自らの命と引き換えに鳥取城の開城と将兵の助命を秀吉と交渉した。しかし、秀吉は鳥取城の副将格の武将と丸山城の三将の助命は許さず、しかも、丸山城の三将は山賊、海賊としての処罰を求めたという。秀吉による補給路潰しは順調に見えたが、だからと言って恨みつらみが和らぐというわけではないようだ。こうして、三将は経家自刃の前日である10月24日に自刃して果てた。
 山賊、海賊として罰せられた三将だが、それぞれ決して出自の怪しい武将というわけではない。佐々木三郎左衛門は近江佐々木氏の末流と推定される程度だが、奈佐日本之介は但馬の名族日下部氏の末流で、奈佐谷を治めるれっきとした国人であり、塩冶高清も近江源氏佐々木氏から分かれて出雲で栄えた塩冶氏の内、但馬に移った一族で、芦屋城主である。日本之介と高清は元々山名家臣であり、秀吉の但馬攻略によって因幡へ追われた武将であることから、但馬攻略の頃から手こずった記憶が厳罰に繋がったようだが、逆に言えば、後に天下を取った秀吉にそこまでの印象を与えたというのは、武将としては有能の証なのかもしれない。
 城のある丸山に行ってみると、西麓には日之本介らの慰霊碑があるのだが、山の周囲をぐるっと回ってみた限りではどうも入山できる道は無いようだ。調べたところによると、城跡には寺があったが、今は廃寺となってしまっているらしい。恐らく、廃寺になった際に、そのまま私有地として立入禁止になったのだろう。歴史的に有名な城跡だけに、いつかは入山ができるようになって欲しいと思うのだが、色々としがらみがあることでもあり、なかなか難しそうだ。