滝山城 所在地 東京都八王子市
中央道八王子I.C.北西2.5km滝山公園付近
区分 平山城
最終訪問日 2012/10/14
本丸の滝山城址碑 山内上杉家臣で武蔵守護代であった大石定重によって、永正18年(1521)に本拠として築かれた。ただ、異説もあり、大石家に入嗣して浄福寺城に入った北条氏照により、永禄年間(1558-70)の中頃に築城されたともいう。
 定重築城説の永正年間(1504-21)は、鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠謀殺を発端とする享徳3年(1455.1.27)から28年も続いた享徳の乱、その終結後の山内上杉家と扇谷上杉家の対立である長享元年(1487)から18年も続いた長享の乱を経て、猶も争乱が続いていた頃である。そして、この旧権力の衰退を尻目に、伊勢宗瑞(北条宗雲)が永正13年(1516)に三浦氏を滅ぼして相模を掌握し、関東経略に乗り出そうという頃でもあった。これらの情勢から考えて、築城は北上してくるであろう北条氏に対する備えという面があったのは否めないだろう。ただ、この頃の大石氏の動向は、山内上杉氏に従っていたと思われるものの、はっきりとはしていない。
 関東の争乱で転換点となったのは、北条氏康が足利家や両上杉家などの旧権力勢を破った、天文14年(1545)から翌年にかけての河越夜戦である。合戦自体に真偽の議論はあるのだが、情勢が一転する大規模な会戦があったのは確実で、これ以降北条氏は躍進し、大石家の当主定久も北条氏に臣従した。そして、永禄2年(1559)に定久は氏康の三男氏照を娘比佐の婿養子に迎え、大石氏は事実上北条氏に取り込まれたのである。とは言え、定久が快く臣従していたかどうかは不明で、後に北条氏に対し頑強に抵抗する三田綱秀と連絡を取っていたという話があるほか、天寿を全うしたという説や切腹させられたという説、謀殺されたという説まで色々な話が伝わっているようだ。
滝山城縄張図 滝山城は、武田家と今川家と北条家による三国同盟の破綻後、武田軍によって永禄12年(1569)に攻撃されているが、この時は三ノ丸まで陥落したものの、氏照自ら二ノ丸で指揮を執って寡兵ながら奮戦し、落城は免れた。武田軍はこの後、滝山城攻略を諦めて小田原城を包囲し、その退却時に三増峠で待ち構えた氏照や氏邦らの北条軍を撃退して甲斐へと引き上げている。だが、滝山城の弱点の露呈と、甲斐に対する防備の必要性から、氏照はより堅固な城の構築を考え、それが後に八王子城の築城に繋がったという。そして、八王子城がまだ建設途中だった天正12年(1584)から同14年(1586)頃に城は廃城となった。
 小田原城籠城に関しては、永禄4年(1561)にも上杉謙信の小田原城攻撃があったのだが、この際に上杉軍は滝山付近を通過しているにも関わらず、合戦が起こっていないことから、これが永禄期築城説の根拠になっている。この説では、滝山城は上杉軍の南下に備える為に築かれた城であるとし、同年から滝山城が文書に見えるようになる永禄10年(1567)までの期間に築城され、氏照は同6年(1563)以降に入城したと見ているようだ。ただ、いずれの築城年代にしても、これほどまでに防御構造が強化されたのは、対上杉軍を考えての事だったのは間違いないと言える。
特徴的なコの字型土橋 城の構造は、多摩川沿いの加住丘陵を利用した平山城で、北東方向は多摩川との断崖を防御線とし、北側の本丸から、本丸南西側の弁天池を時計回りに囲むように中ノ丸、二ノ丸、千畳敷、三ノ丸、小宮郭が配されていた。その他には、本丸西側には山の神郭というやや独立した一角があり、中ノ丸と二ノ丸の南東方向には家臣屋敷が配されている。この内、二ノ丸辺りまでが大石氏時代の構築で、それ以外は北条氏時代の構築という。これらの郭は、複雑な造形の土塁と堀切で区画されている上、無数の桝形と馬出で幾度も屈曲する動線を作り出しており、現地を歩くだけでは全体の把握は難しいほどである。ただ、この城の防御力をフル活用する為には、広さ故に万人規模の兵力が必要だっただろう。
 滝山城は、北条氏の城郭技術が詰め込まれた城であり、石垣の城特有の壮麗さは無いが、土木の粋を凝らした縄張には圧倒される。特に、小宮郭付近のはっきりした空堀やコの字型土橋、非常に状態良く残っている土塁の桝形など、他ではなかなか見られないものや独特の遺構などは、土の城特有の力感があって非常に良い。城域が広く、また視界が木々や土塁によって遮れている場所もある為か、各ポイントには縄張図を示した案内板が置かれており、郭の役割や動線が示されていて解り易くなっているが、それでも図と現況を見比べつつ散策しないと構造が理解しにくいほどで、巨城でありながら精緻さも感じられた。1時間強の散策時間だったが、細部を見ていけば丸1日過ごせそうなほどで、遠いだけになかなか難しいのだが、また再訪したいと思わせる城である。