浄福寺城 所在地 東京都八王子市
八王子市役所西5.5km陣馬街道沿い
区分 山城
最終訪問日 2012/10/14
浄福寺城本丸 城名は、麓の千手山浄福寺から取っているが、寺自体が古くは千手山普門院城福寺と称し、江戸時代後期に今の名となったことから、往時にはこの城名で呼ばれてはいなかった。現地には新城という表示があり、そのほかにも松竹城、案下城、千手山城などと呼ばれたようだ。また、一説に由井城に比定する説もある。
 この城を本拠とした大石氏は、信濃国佐久郡大石郷が本貫とされ、元は藤原秀郷流の信濃藤原氏の末裔とされるが、子が無かった鎌倉末期から南北朝時代にかけての当主為重が、木曾義仲の裔という木曾家教の三男信重を養子に迎えて以降は源姓となった。そしてこの信重が、観応3年(1352)の新田義貞の子義宗との笛吹峠の戦いに上杉憲顕の家臣として功を挙げ、延文元年(1356)に入間郡と多摩郡に所領を得て武蔵に移ったという。だが、当時の憲顕は尊氏と対立した弟直義派で義宗側として参陣しており、また、延文元年頃は憲顕が失脚していた時期でもあるので、所伝がどこまで本当なのかは疑問が残る。浄福寺城自体は、信重が至徳元年(1381)に築いたといい、最初の本拠地であった二宮城から居を移したという。そして、その後の大石氏は、山内上杉氏配下として武蔵や伊豆などの守護代を務め、足利公方家と上杉家の対立の際も一貫して上杉方として活動したことが見える。
広さのある本丸下の次段 両者の対立は、足利持氏叛乱による鎌倉府廃止とその遺児成氏の復帰による再興へと繋がっていくが、享徳3年(1454)には関東管領山内上杉憲忠が成氏に謀殺されて享徳の乱が勃発してしまう。この時、大石家当主房重も上杉軍の一翼として翌年の分倍河原の合戦に参陣したが、この合戦は上杉方の惨敗となり、扇谷上杉顕房や犬懸上杉憲秋が敗れて自刃したほか、房重も討死している。そして、この直後の長禄2年(1458)に大石家の本拠地は高月城へと移されたが、これは上杉側の立て直しと対足利氏支城網の構築という戦略に沿ったものだろう。ちなみに、同様の目的があった江戸城や河越城も、この前年の築城とされている。
 享徳の乱は28年も続き、享徳の乱終結後には長享元年(1487)から18年に渡って山内上杉家と扇谷上杉家の対立である長享の乱が勃発した為、戦乱が続く中で足利公方家や関東管領上杉家の威信低下と共に、その守護代である大石氏も勢力の退潮を余儀なくされたようだ。こうして上杉氏の領国の複数国の守護代を務めた大石氏も、勢力減退と共に武蔵の土着勢力としての性格を強めていったが、史実かどうか議論のある天文14年(1545)から翌年にかけての河越夜戦で、足利公方家と両上杉家が敗れたことが決定的となり、戦後に北条氏康の子氏照を養子に迎えて臣従した。
 一般には、大石氏の居城はその勢力拡大に合わせ、この浄福寺城から、高月城、滝山城へと移ったとされる。ただ、これには異説もあり、その説では北条氏康の子氏照が大石氏に入嗣した頃もこの城が本拠であり、永禄年間(1558-70)の中頃に滝山城へ本拠が移されたとするようだ。また、氏照の養父といわれる定久が浄福寺城を築いたとする史料もあり、この辺りの真偽は新たな史料の発掘が待たれるところだろうか。
登山道峰筋の土橋状の部分 本拠移転後、浄福寺城は支城として維持され、一説に定久が隠居城として使っていた戸倉城から一時的にこの城に移ったともいわれるほか、後に氏照が八王子城を築いた際にも支城として機能している。そして、天正18年(1590)の小田原合戦の際には、八王子城と共に北陸北信大名の軍勢に攻撃されて落城し、そのまま廃城となった。この時、城には大石一門や風魔衆などが籠もっていたともいうが、八王子城に領民までが籠もる状況で支城にそれほど兵を残すことは考えられず、ごく少数の兵のみで空城に近い状態だったとするのが定説という。
 城があるのは、陣馬街道が平野部へと出る寸前の街道北側で、街道筋を押さえる役目があり、城へは、館跡との説もある浄福寺の、墓地北西側から入れる。登り始めるとすぐに観音堂のある削平地に出るが、ここも城域だったと思われるものの出郭のような位置付けだったのか、この先には遺構が少なく連続性が無い。観音堂を過ぎるとしばらく尾根道が続き、鞍部か土橋か判別できない箇所を過ぎるとようやく段郭が現れ、土塁や堀切、食い違い虎口状の地形が見られてぐっと城跡らしくなる。ただ、段郭はどれも規模が小さく、急峻な小城という印象だ。頂上の主郭部は2段構成となっており、上段の方は櫓台のような感じで小さな祠が祀られ、下段の方はなかなか広く、土塁なども残り、建物などが建てられていたのかもしれない。
 八王子城の駐車場が午前8時半にならないと開かないということで時間を見つつ訪れた城だったが、知名度の割に遺構は比較的良好な状態で残っていた。頂上主郭部から続く他の尾根筋や恩方第一小から登る道にも遺構が多く残っているそうで、なかなか見応えがあるらしいのだが、こちらはガイドが必要なくらい整備されていないらしい。それらを含め、またいつかじっくりと訪れたい城である。