八王子城 所在地 東京都八王子市
JR高尾駅北西2.5km
区分 山城
最終訪問日 2012/10/14
登山口にある八王子城の模型 甲斐との領境を固めるべく、滝山城に代わる城として北条氏照が築いた城。詳しい築城時期は不明で、一般に天正12年(1584)から同15年(1587)にかけて築かれたとされるが、元亀年間(1570-73)頃からすでに築城工事は始まっていたとする説もある。
 氏照は、八王子城へ移る前は滝山城に在ったが、永禄12年(1569)に武田軍の攻撃で三ノ丸まで陥落し、城の弱点を認識した為、より堅固な城の構築を考えるようになり、信長の安土城を参考として築いたのがこの城という。元亀年間の築城説では、この武田軍の侵攻直後から築城を開始したということになるが、天正14年(1586)末頃とされる氏照の入城時期から考えると、秀吉が信長の後継者として地歩を固めた時期でもあり、いずれやって来るかもしれない秀吉との対戦を念頭に城の構築を進めていたのは間違いない。まして、天正期の築城説ならば、家康との同盟後で下野や常陸に目を向けていた北条家にとって西側を強化する緊急性は低く、間違いなく秀吉を意識していたと言えるだろう。
 その後、北条家は表面上は秀吉と友好を保ったが、天正15年(1587)に秀吉が惣無事政策を打ち出した後、真田氏と上野領を巡って争いとなり、一旦は仲裁で落ち着くものの、再び沼田城代猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を謀略を以って奪ったことから、天正18年(1590)に小田原征伐を招くこととなる。この戦いでは、氏照が主戦力を率いて小田原城に籠もった為、横地吉信、中山家範、狩野一庵、近藤秀綱ら重臣が城を守り、守備隊は留守兵や領民が中心となった。その数は諸説あるが、約3千ほどだったという。
八王子城本丸 秀吉による小田原征伐は3月末に始まり、北陸や北信の大名で構成される北方軍が上野の北条方拠点を落としつつ南下し、八王子城に取り付いたのは6月23日であった。北方軍の兵力は1万5千とも3万5千ともいわれるが、いずれにしても圧倒的な兵力であったのは間違いない。この大軍が夜間早朝から攻撃を開始し、寡兵の城方は日が昇る頃には早くも要害地区と呼ばれる山城部分まで後退した。ここで城方の奮戦により攻城の足が止まったが、搦手を攻撃していた上杉軍が水の手の棚沢から奇襲を仕掛けた為に均衡が崩れ、やがて城から火の手が上がって重臣らも各々突撃や自刃で散っていったという。こうして八王子城は巨城ながら僅か1日で落城し、これを受けて主要な支城の落城による継戦の不可を悟った北条氏政・氏直父子は、7月5日に小田原城を開城した。
 城のある深沢山には、延喜16年(916)から祀られ、地名の由来でもある八王子権現があり、これを守護として、防衛の中核部分である山城の要害地区、居住域である麓の居館地区、城下町であった根小屋地区、そして御霊谷などの外郭の、大きく4つの部分で城は構成されている。根小屋地区や外郭は宅地化や開発などで遺構が少ないが、居館地区と要害地区は、北条氏に代わって関東に入部した家康が、落城した状態のまま城を廃して禁制地とした為、破壊を免れた。特に居館地区は、発掘調査と復元によって優美な石垣を見ることができ、近世城の雰囲気が漂っている。これに対して要害地区は、金子郭などの峰筋に続く段郭や、削平地の大きくない本丸など、中世山城の雰囲気を色濃く残しており、安土城を参考にしたといわれる割には近世的な雰囲気が見られない。この辺りの雰囲気の違いや滝山城の完成度などとの比較が、自分を含めて様々な城を見てきた人にとっては、色々疑問に感じる所のようだ。
 防衛重視とされる八王子城は、滝山城よりも後の城だが、構造物の複雑さという点で見れば、滝山城の方がより複雑で技巧的である。これは、平山城と山城という地形の制限の違いに起因するのだが、逆に言えば、それほど技巧を用いなくても八王子城は要害で堅いと見られていた証なのだろう。ただ、滝山城の方が主郭の収容能力は遥かに大きく、何を意図して八王子城を防御拠点としたのかが見えにくい。これに対しては、未完成という説や、氏照が小田原城に籠もる前提で小人数の留守兵でも守れる城にしたなど諸説があるが、定説を見るまでは今しばらく時間が掛かりそうだ。
典型的な段郭である金子丸 八王子城は、登山でも人気があり、訪れた時も登山者が多く、二ノ丸とも中ノ丸とも呼ぶ松木郭で景色を見ながらコーヒーを淹れている人達も居た。また、落城の悲劇から、心霊スポットとしても有名で、感じる人は何かを感じるらしい。散策路は、麓の駐車場から居館地区までは非常に整備されて快適かつ見た目も優美だが、要害地区は一転して中世山城の散策そのままの急峻な登山となり、近世城と中世山城が同時に味わえる城である。根小屋地区や外郭は今回行けなかったので、次回はその辺りも散策してみたい。