鑓場古戦場
所在地  徳島県徳島市
JR府中駅北3.4km県道29号線沿い
最終訪問日  2008/10/22
鑓場古戦場の碑 阿波守護だった細川持隆が三好義賢に討たれた後、その弔いとして持隆の遺臣と三好軍が戦った鑓場の義戦の古戦場。
 持隆は、阿波守護として管領細川晴元を支え、細川高国との戦いで畿内にも出陣するなどしていたが、晴元が足利義晴を擁立したことから晴元と義絶し、阿波へと引き上げた。その後、晴元は畿内で晴元政権とも言うべき権勢を得たが、やがて家臣三好長慶と対立し、長慶が細川氏綱を擁立すると敗れて京から追われてしまう。そして、晴元や義晴、その嫡子である将軍義輝は長慶と戦いを続けるが、天文21年(1552)正月には和睦した。これにより、長慶は相判衆に列せられて幕臣となり、細川家家臣という陪臣の立場だった長慶が、実質上の最高権力者となったのである。
 このような複雑な中央の情勢の中、持隆は前将軍の義晴の弟義維(義冬)を擁立して上洛することを企てた。これに反対したのが義賢である。義賢は、公然と諫言という形で反対したとも、三好家に心を寄せる持隆の家臣から企てを漏れ聞いたともいわれるが、詳細はよく分からない。ともかく、義賢排除に動いた持隆の機先を制したものか、単にこれを機会に下剋上を図ったのか、義賢は月見中の持隆を龍音寺で襲い、逃げ込んだ見性寺で自害に追い込んだ。この出来事は天文21年(1552)8月19日とも、その翌年の6月17日のこととも伝わる。
 この持隆暗殺に憤慨したのが、持隆の姻族であった芝原城主久米義弘で、佐野丹波守や仁木高将、小倉重信、野田内蔵助もこれに同調し、挙兵した。現地案内板では天文22年(1553)春の挙兵となっているので、同21年の持隆暗殺説を採っているのだろう。だが、この挙兵に賛同する者は少なく、三好家の勢力を恐れて持隆の旧臣達は日和見し、義弘の軍は8百しか集まらなかった。これに対する三好軍は淡路の安宅冬康などの援軍を含め3千である。勝敗は戦う前から見えていた。
 両軍が激突したのは、この東黒田鑓場付近で、勝瑞城と芝原城のあった国府町芝原の位置関係から考えると、古戦場は芝原城からかなり近く、義弘らの軍勢が先手を打たれてここで迎え討たなければならなかった状況が窺える。寡兵の上に先手を打たれては、いくら弔いに燃えて兵の士気が高かろうと、如何ともし難かっただろう。結局、勝機が無いことを悟った義弘は単騎で敵中に討ち入り、自害したという。
 現在の古戦場は、田園風景が続く場所となっており、かなり細い県道29号線が吉野川の堤防の道に合流する寸前という場所に案内板と碑が建っていた。堤防付近から眺めれば、一帯はなかなか見通しの利く景色のいい場所で、このような何の変化も無い平らな野で軍勢がぶつかれば、寡兵の側はひとたまりもなかっただろう。
 ひとつ気になったのは、現地の案内板に三好軍が中富川を渡って攻め寄せたという記述があることだ。当時の中富川は現在の旧吉野川で、現吉野川の場所には別宮川という川が流れていたらしい。となると、別宮川を渡って攻め寄せたとするほうが自然と思われるのだが、当時の中富川の流路が調べてもよく分からなかったので、なんとなく引っ掛かったままとなっている。