脇城 所在地 徳島県美馬市
脇町高校北西700m
区分 山城
最終訪問日 2011/5/14
東南麓の秋葉公園にある城の案内文 蜂須賀氏治世下の阿波九城のひとつ。虎伏山にあることから、虎伏城とも呼ぶ。
 鎌倉時代中期に、藤原氏系の脇氏がこの地に入り、後に城を築いて代々居城したとされ、文明年間(1469-87)頃には脇権守仲房が居したという。だが、その城は「土居構のカキ上」と史料にあるので、平地か麓にあった居館様式の城であった可能性が高く、郡誌や脇町誌でも今の脇城とは別であったという説を採っている。
 虎伏山に脇城が築かれたのは天文2年(1533)で、三好長慶が城を築いて三好兼則を城代に据えたと伝わるが、当時長慶は若干11歳であり、実際には後見した重臣によってだろう。また、この年は長慶の父元長が討たれた翌年であり、当主を失った三好家への領土蚕食に抗すべく築かれた城ではないだろうか。
 この兼則についての事跡は不明だが、以降も城自体は三好氏が保ったようで、弘治2年(1556)には兼則の隠退に伴い、武田信玄の父信虎の駿府追放時代の子である武田信顕が招かれて城主となっている。信顕は、長慶の死後も三好家に仕え続け、長慶の弟義賢(実休)の子で阿波を支配していた長治に従っていたが、天正3年(1575)かその翌年頃から土佐の長宗我部元親が阿波へ進出してくると、同7年(1579)夏の重清城の再落城を見て、隣接する岩倉城主三好康俊と共に元親に誼を通じたという。この岩倉城の康俊は、長宗我部家へ寝返ったばかりか、一計を案じて三好家に対して寝返る旨の書状を送り、同年12月27日にその援軍として脇城下に進軍してきた三好軍を奇襲して多くの将を討取っているのだが、岩倉城と脇城はほぼ一体的に機能していたことや、脇城の城下が戦場となったことから、信顕も確実にこの謀略に加担していたと思われる。
 その後、中央を制した信長が三好家を傘下に収め、四国征伐の先駆けとして康俊の父康長を阿波に派遣して降誘工作を展開すると、信顕は再び康俊と共に三好家と通じたが、天正10年(1582)6月に信長が本能寺の変で横死すると、四国征伐は白紙となってしまう。そして、5百の兵が守る脇城は阿波統一を目指す長宗我部軍3千の猛攻に晒され、同年10月に落城し、信顕は讃岐へと逃れる途中で討死した。
本丸東側の大堀切 長宗我部時代の脇城には、長宗我部一門の親吉が入城したが、その治世は短く、3年後の秀吉による四国征伐の際に開城落城している。この時、親吉は5千の兵で城を守ったが、雲霞の如く攻め寄せる秀吉軍3万の前に手が出ず、更には相互に機能すべき岩倉城も落城した為、脇城を開城し、土佐へと落ち延びる途上で土豪に討たれたという。
 四国征伐後、阿波の大半を与えられた蜂須賀家政が入部すると、領内の諸城を整理して主な九つの城に重臣を置いて治めた。これが所謂阿波九城であるが、その中でも脇城は特に重視されたようで、筆頭家老稲田植元が城代として兵5百をもって封じられ、城下整備に尽力したという。城はその後、元和元年(1615)の一国一城令で破却されたが、この時点では未だ中世的な在郷重臣の権力の弱体化が十分でなく、重臣の独立的権力の否定を伴う完全な破却には至らなかったようだ。だが、次第に藩体制も成熟し、島原の乱の再発を恐れる幕府が古城破却の命令を出したのを機に、寛永15年(1638)に完全に廃城となった。ちなみに稲田氏は、大坂の陣の功で蜂須賀家に淡路一国が加増された後、植元の子示植が由良城代として転出しており、その後は廃城まで城番が居たと思われる。
 城の構造は、虎伏山の西南突端部に本丸を置き、西側に一段下がった小郭を備え、東側には大堀切を挟んで大きな2つの郭があったようだ。また、本丸すぐ南側直下の麓、脇人神社北側には居館があったらしく、常に居住する戦国末期の城というよりは詰城の性格が強い。ちなみに、居館跡にはかつて大屋敷という字があったという。主な郭はこの4つだが、周囲の別峰には東西北にそれぞれ大木ノ丸、田上ノ丸、国見ノ丸という区域があり、ここには恐らく出丸があったのだろう。前述のように阿波九城のひとつだったことから、豊臣政権期以降はある程度改修もされたと思われるが、信顕も植元も手持ちの兵力は5百であり、規模はそれほど変わらなかったのではないだろうか。
藪に埋もれた本丸の小堀 虎伏山南麓の秋葉公園には、脇城についての説明が少しだけあるが、他に説明板などは無く、現地から城の歴史を知ることは難しい。昭和47年の脇城の実測調査の報告書と現在の地図を見比べると、秋葉神社からツヅラ折りに登った先は本丸から東側2段目の郭で、未舗装の道を少し進んだ所が東側1段目、堀切を越えた先が本丸のようだ。城跡は全体的に藪化しており、全体像を掴むのに苦労するが、堀切が非常に明確で判り易く、本丸東側の大堀と調査時に呼ばれたこの堀切から逆算することで、城の形を把握することが可能である。
 堀切の先の本丸は藪と化しており、実測調査では奥行きがかなりあるのだが、奥まで行くことはできなかった。しかし、入って右手はやや藪が薄く、掻き分けながら進むと、実測調査で小堀とされた窪みを見ることが出来る。ただ、調査時には4m以上の深さがあったようだが、埋もれたらしくそれほどの深さは無かった。大堀の手前側については、こちらも藪化しているのだが、本丸東側すぐの郭は2段になっており、遊歩道のすぐ横には、上下の段を画していたと思われる石垣跡が、竹に埋もれつつも僅かに確認できる。
 公園の案内文にあったように、本丸の場所にかつては三本松があり、子供でも難無く入れるぐらい下草なども刈られていたらしい。現状からは、そういう整った状態を想像するのが難しいぐらいだが、昔は里山として人の手がよく入っていたのだろう。江戸時代初期まで城があったのに、中世の城のように荒れ放題なのは非常に勿体無いと思うのだが、里山が必須ではなくなった現代の生活環境では、整備は難しいのかもしれない。