徳島城 所在地 徳島県徳島市
JR徳島駅北東すぐ国道192号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2004/2/25
弓櫓から本丸跡 江戸時代に阿波と淡路の2ヶ国を領した蜂須賀氏の居城。
 山には南北朝時代の至徳2年(1385)に管領細川頼之の築いた城があり、風光明媚な中国の渭水から名を取って渭津城や渭山城と呼ばれていた。また麓には河川を防御の要とした寺島城があったという。
 阿波は、管領細川氏の一族が守護となっていたが、やがて守護代である三好氏が台頭して戦国大名化し、細川氏は衰えた。しかし、その三好氏も家臣松永久秀の台頭、織田信長の上洛によって畿内の拠点を失い、また、阿波も土佐国長岡郡から興った長宗我部氏の侵攻を受け、この城も長宗我部氏の支配下となったようだ。この頃の城主としては、吉田康俊の名が史料に見える。
 長宗我部氏の圧迫に窮した三好党は、信長に属していた三好康長が織田軍の先遣隊として四国討伐に乗り出すとこれを迎え、信長の横死による討伐中止後は、阿波に在って三好党をまとめていた十河存保が康長を通じて秀吉に助けを求めた。存保は、天正10年(1582)の中富川の戦いに敗れた後、讃岐国をも失って一度は四国からの撤退に追い込まれたものの、同13年(1585)の四国征伐が行われ、秀吉軍の大戦力の前に長宗我部氏は降伏することとなる。しかし、存保は讃岐の旧領の一部を与えられたのみで、三好党の本拠である阿波は、そのほとんどが蜂須賀氏に与えられた。
東二ノ丸跡と天守跡の碑 秀吉の古参であった蜂須賀正勝は、この阿波受領を固辞した為、当地に入部したのは、その嫡子家政である。家政は当初、一宮城に入ったが、やがて山上の渭山城と麓の寺島城を合わせる形で徳島城の縄張を行い、新城築城に取り掛かった。この工事は、秀吉の命による四国諸大名の協力もあって翌年の天正14年(1586)には早くも完成したという。ちなみに、この築城工事が諸大名に協力を命じた天下普請の原型になったともいわれる。
 この後、家政から至鎮の代に掛けて、秀吉政権の樹立、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦、同20年(1615)大阪の陣と、時代の節目を乗り越え、大坂の陣後に淡路一国を加増されつつ、そのままこの城から動かずに徳島藩蜂須賀家は維新を迎えた。途中、城は元和年間(1615-24)に初期の天守が取り壊され、東ノ二ノ丸に建てられた御三階櫓が天守代わりとなっている。
 維新後の城は、明治8年に建物が取り壊され、鷲の門のみがその威容を残していたが、第二次大戦の戦災で焼失し、当時の建造物は皆無となってしまった。現在、鷲の門が市民の尽力によって復元され、御殿のあった場所には徳島城博物館が御殿の外観を模して造られている。
市制100周年を記念して建てられた鷲の門 城は、政庁及び居住空間にあたる麓の部分と、山の軍事要塞部分の2つに分かれた、典型的な近世平山城であった。山上と麓を合わせた規模は雄藩の本拠だけに大きく、山上の要塞部はさらに山頂と西、東の3つに分かれ、東ノ二ノ丸には前述のように天守代わりの御三階櫓があったが、なぜ山頂ではなかったのかというと、これには諸説あるのだが、一説ではより海が望める立地を選んだ為という。この辺りは、水軍を持っていた大名らしい理由である。
 麓の政庁部分は広大ではあるが、2ヶ国の太守の城にしては山上の軍事要塞部分がそれほど大きくなく、難攻不落という感じはない。これは、吉野川とその入り組んだ支流を防御力の一端にしているのが主な理由だろうが、江戸時代に佐藤信淵が指摘したように、事あらばより畿内に近い洲本の三熊山にある山城を要塞として使い、水軍で京や大坂に押し出すという野望を家政が秘めていたという説も、城を見ると理解できる。
 現在城跡は公園となり、市民が散歩や通勤路として使っていたが、部活動のトレーニング場としても重宝されているようで、階段の駆け上がりや長距離走のトレーニングが行われており、都市部に残った城によくある風景があった。ただ、西ノ二ノ丸、三ノ丸、山頂の本丸、東ノ二ノ丸にはそれぞれ石垣が残り、明確な縄張や野面積の石垣などがせっかく壮観なまま残っているだけに、やや勿体ない感じもある。大藩の本拠として割合有名な城としては物足りない感じで、山上部の城塀だけでも復元すれば、もっと城としての趣が出て観光資源として生きるのに、という感想が城を後にして残った。